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君がため、惜しからざりし命さえ(13156文字)


 葉月にとって吹雪はとくべつで、たいせつな存在だ。彼女の願いなら何だって叶えてやりたいと思うし、実際今までそうして過ごしてきた。甘ったるい声で「はーくん」と呼ばれるたび、幼い笑顔を向けられるたび、葉月の心はきゅうと音を立てる。そして何より、人より冷たいその手に触れれば、それだけで彼女も幸せそうに頬を緩めるのだ。

 互いを恋い慕っている事は葉月もうすらと自覚していたし、吹雪も同じだと思う。けれど、幼なじみの彼女にはある秘密があった。それを知るのはごく一部の人だけだ。

 ——彼女は大人になる前に死んでしまう。そんな信じ難い呪いを抱えて生きているけれど、本当は年端もいかないごくごく普通の少女なのだ。

 あやかしというものが存在するのを、葉月は知っている。吹雪の命を蝕む呪いが、あやかしの手によるものだという事も知っている。全く現実味がないけれど、紛れもない事実だ。

 恋人という関係になってしまえば、その先を望んでしまう事だって分かっていた。分かっていたから、葉月はそうしなかった。

 
 吹雪にとっての本当の幸せが何なのか。——それは、最期の時までいつも通りに過ごす事なのだ、と。そう自分に言い聞かせた。
 
 だから葉月は、吹雪にとってのとくべつであり続ける事を選んだ。

 
 果たして、葉月の願いは叶ったのだ。
 
 
 
 
 
 
 夏休みも中盤に入り、蝉の鳴く声が町を包み込むようになって久しい。庭に洗濯物を干していた葉月の元に、朝食を終えたらしい吹雪がぱたぱたと駆け寄ってきた。

「はーくんはーくん」
「ん? もう朝ごはん食べたの?」

 バスタオルを伸ばして竿に掛けた葉月は、吹雪を振り返ってふわりと微笑む。吹雪は背中に回していた手を前へやって、葉月にそれを見せた。彼女の手にはチケットが握られていて、よく見ると「招待券」と書かれている。

「招待券? どうしたの、それ?」
「学校でもらったの。良かったら葉月くんと行っておいでーって」
「へぇ、どんな招待け、ん……」

 チケットを見つめていた葉月は、小さく書かれている文字列を見て言葉を詰まらせた。そこには「カップル限定」と明記されていた。——つまり、それは、そういう事だ。葉月はううん、と咳払いをしたが、吹雪は不思議そうにこちらを見つめて目を瞬かせている。

「はーくん?」
「んん、いや、吹雪、それ説明ちゃんと読んだ?」
「せつめい?」

 かくりと首を傾げ、吹雪は自分の方にチケットを向けて文字列を凝視する。沈黙の間、葉月は彼女の誘いをどう断ろうかと頭を悩ませた。自分達はカップルではない。そうなる事を葉月は望んでいないし、吹雪もそうだろうと思う。……思うのだが、果たして本当にそうなのだろうか。幾許かの不安に苛まれた葉月は、顔を上げた吹雪の目に「うっ」と声を漏らした。

 彼女の天色の瞳はきらきらと輝いて、期待に満ち満ちていた。それはもう太陽よりも眩しい輝きだった。

「はーくんと一日恋人になれる券ってこと?」
「いやいや、それは違うでしょ」
「えー違わないでしょー。えへへ……はーくんのかのじょ」

 そんな事を言って蕩けた笑みを浮かべた吹雪に、葉月はぐっと声を押し込める。

 こうして笑う彼女が愛おしくないわけがないのだ。しかし、吹雪との関係に先を求めようとは思えなかった葉月にとって、そんなお遊びのような事は到底許し難いものだった。たった一枚の紙切れのために自分達の関係を偽るなんて——しかも限られた時間内だけである——葉月にはできなかった。

「吹雪、それ返しておいで」
「えーっ、やだやだはーくんと恋人するのー!」
「おれは行きません」

 きっぱりと断る葉月の態度にむう、と頬を膨らませた吹雪は、拗ねたようにぷいとそっぽを向いて肩を竦める。

「いいもん、それならひょー助引きずっていくもん」

 友人を引き合いに出してきたことにちくりと胸が痛んだ気がした葉月は、しばらく逡巡した後、口元に手をやって視線を落とした。

「そんなに行きたいの?」

 チケットは人気のテーマパークの招待券だ。しかしその場所まではそこそこの距離があるし、日帰りとなると少々ハードなスケジュールになるのは容易に想像できる。親からの仕送りを貯めた資金があるにはある。時間もたっぷりある。遊びに行くだけなら何の躊躇いもないけれど、やはりどうしたって葉月の心にはさざなみが立つのだ。

 彼女は葉月にとって、幼なじみという枠にははまらないとくべつな存在だ。幼なじみというだけなら、葉月も今回のわがままを快諾する事だってできた。けれど、そういうわけにはいかない事情がある。——吹雪はもうすぐ死んでしまう身で、先がない。だから、偽りだとしても簡単に彼女と付き合う事などできない。恋人になる事が彼女の幸せではないと知っていたから。
 ——もし一日、恋人と偽るのなら。そんな事ならいっそ、その時だけでなく最期の瞬間まで、恋人としての関係を。でもきっと、吹雪はそれを望んでいない、はずなのだが。

 吹雪は葉月の問いに素直に頷き、その表情にふと僅か暗い影を落とした。

「だって、はーくんとたくさん思い出作りたいもん。一緒にいたいもん」

 吹雪の言いたい事は分かる。現に吹雪は葉月と最期の時まで共に過ごすため、親元を離れてひとり暮らす葉月のところへ転がり込んできた。彼女の両親は吹雪のわがままを快く受け入れはしなかったのだと思う。掛かってきた電話口で「吹雪をよろしく頼む」と、切実な声色で告げられた。それから葉月は、吹雪を幸せにするためなら何だってしようと心に決めたのだ。

 たっぷりの沈黙の後、葉月は大きなため息を吐き出して目を閉じ、額に手を当てて首を横に振った。葉月の様子に吹雪は眉を下げ、視線を落とした。

「……だめ?」
「——…………、いいよ」

 ぽつりとこぼれた葉月の言葉を聞いた吹雪が、一拍間を置いて「えっ」と声を上げる。

 彼女の願いを叶えたいと葉月は思う。それなら、今まで通り自分の気持ちを犠牲にしたって構わない。そう、内容はどうあれど、吹雪にとってはこれも今まで通りのわがままなのかもしれない。なら、自分はそれに付き合うまでだ。

「吹雪がそうしたいなら、いいよ」
「ほんと?」
「うん。でも、条件があるかな」

 気付くとそんな言葉が出ていた。目を瞬かせた吹雪が、何も言わず続きを待つ。

「一日だけじゃなくてさ、ずっと恋人でいてくれないかな」

 そう呟いた声が何故か自分の声ではないような感覚に陥って、葉月はごくりと喉を鳴らした。

 再びの沈黙。驚いたような、戸惑うような表情を一瞬見せた吹雪だったが、次の瞬間にはふにゃりと笑って首を傾けた。

「はーくんもそんなこと言えるようになったんだ」
「……え」

 はく、と口を開きかけた時、吹雪が「よし」と声を上げてくるりと踵を返し縁側へ向かう。

「じゃあ用意してくるね」
「えっ、これから行くの?」
「思い立ったが吉日って言うでしょ、はーくんも早くー」

 軽やかに縁側へ飛び上がった吹雪の背中は、すぐに居間の向こうの廊下へと消えてしまう。

 ……これは、はぐらかされてしまった。というより、冗談だと捉えられたらしい。自分なりに精一杯の告白を試みたつもりなのだが、どうやら失敗に終わったようだ。そこで内心安堵している自分がいる事に気付いて、葉月は苦笑いをこぼした。

 吹雪との関係は複雑だ。いや、複雑なんてものでは言い表せられない。友達以上恋人未満という言葉があるけれど、そんなものでは片付かないと葉月は思っている。お互いの事はよく理解しているつもりだし、きっと吹雪もそうだろう。だから今回の誘いも、彼女からの一種のからかいなのかとも思ったのだ。

 呆然と庭に立ち尽くしていた事に気付いた葉月ははっと我に返ると、残りの洗濯物をいそいそと片付けにかかった。

「今日は忙しくなるなあ……」
 
 
 
 電車に揺られている間、いつものように他愛もない話をしながら目的地へ向かっていた。葉月達の住む町は都会とは言えないところにあるので、電車を利用する客も多くはない。ほとんど貸し切り状態の車両の中で、吹雪は流れゆく景色を眺めながら楽しそうに笑う。その横顔に、ああ、やっぱり彼女は自分にとってとくべつな存在なんだなあ、と葉月は改めて思った。

 この笑顔は自分にしか見せないものだ。人当たりのいい彼女はよく笑う方ではあるけれど、自分やごく一部の友人にしか見せない顔がある。学校では「いい子」を演じている……と言うと、少し語弊があるかもしれない。でも、自分や友人の前でだけ、本当に自由に振る舞っている彼女がいるのも事実で。吹雪のありのままの姿は、きれいで、かわいくて、それでいてどこか涼やかで、儚くて。いのちを精一杯に生きているようにきらきらと輝く彼女をそばで見守る事は、自分にしかできないのだと。そう思えるだけで、葉月は胸がいっぱいになるような、そんな思いに駆られるのだ。

 恋人と言っても申し分ない関係。たいせつに想い合う、そんな存在。朝は会話の流れで告白じみた事を言ってしまったけれど、あれは自分の奥の奥に閉じ込めていた本心なのだと葉月は気付いた。

 ——本当は、彼女と恋人になりたい。一日だけなんかじゃなくて、これから先も、ずっと。そうしたら、その手を優しく引いて、互いの熱を感じ合って——彼女の全てを、知りたい。

 車窓の向こうの景色をぼうっと眺めていた葉月の視界の端から、細い指が伸びて鼻を摘んだ。驚いて目を丸くする葉月の顔を覗き込んだ吹雪が、くふくふと口元で笑みを浮かべていた。

「びっくりした」
「ふふ、はーくん隙だらけ」

 手を離し目を細める吹雪のどこか嬉しそうな笑顔に、葉月もくすりと微笑む。

 こんな風に笑う彼女が愛おしくてたまらない。そして一度口をついて出た想いは、もう変わることはない。

 ——だからこそ、もう一度この想いを伝えよう。今度は彼女にはぐらかされないように、この手からするりと逃げられることのないように。でも、今はそのタイミングではない。

 電車が徐々に減速する。次の停車駅が目的の場所だ。ここまできたら招待券の通り、恋人を貫いて楽しもうと葉月は心に決めたのだった。
 
 
 
 テーマパークの入り口へ駆け寄った吹雪が「わあっ」と声を上げて葉月を振り返った。彼女の深い青の瞳は、まるで宝石のように輝いていた。

「はーくんっ、見て見て! おっきい門!」
「うん、すごいなあ」

 吹雪の様子に微笑み、葉月は彼女の隣へと歩み寄る。行き交う来場客は若者や家族連れが多く、その半数近くがカップルと思われる男女だった。なるほどこれなら疑われることなく入場できるだろう。

「招待券持ってきた?」
「うん、ちゃんとあるよ」

 ショルダーバッグからチケットを取り出して吹雪は笑う。そしてもう片方の手で葉月の手を取り、先へ先へと歩き出す。

「わっ、吹雪引っ張らないで」
「早くいこいこ!」

 歩くたび、彼女の蒼銀の髪がさらさらと揺れる。周りを行く人も時々その様に目を奪われているのが葉月にはよく分かった。しかし、今のこの場所なら彼女が悪目立ちする事もないだろう。若者が多いここでは、吹雪のように鮮やかに染まった頭髪の男女が少なからず見受けられる。——もっとも、吹雪の髪色は生まれつきのものなのだが。

 ゲートで係員にチケットを見せると、係員は吹雪を見て満面の笑みを浮かべた。

「とても綺麗な髪ですね! 素敵です」
「……えへへ、ありがとうございます」

 係員の言葉に吹雪は照れ臭そうに笑う。

 彼女がいつか「自分の髪を好きになれない」と言っていたのを葉月は思い出した。まだ幼い頃、吹雪はその髪色や視えざるものが視えてしまうせいで、同年代の子ども達から距離を置かれていたのだ。親の勧めで初めて会った時、吹雪は今のように笑う事などなかった。周りに蔑まれ、疎まれてきた彼女の心は、固く閉ざされていた。その心境に変化があったのは、二人してあやかしに襲われた時からだ。その時に吹雪を助けてからだろうか、彼女が懐き始めたような気がする。彼女の呪いの事を知ったのもその直後だった。

 今こうして楽しむ事に全力を注いでいる吹雪を見ると、葉月は何とも形容し難い気持ちになる。それは負の感情ではなく、むしろあたたかいものだ。過去の彼女を知っている葉月からすると、吹雪がこうして笑ってくれるだけで嬉しいし、安心感を覚えた。

 ゲートをくぐって入場したところで、吹雪がぱたぱたと掲示板へ向かった。その後についていくと、パンフレットを持った吹雪がくるりと踵を返してそれを広げた。

「前情報なしで来たから、何があるのか見てから行こ。ジェットコースター乗りたいなー」
「いいよ、行こっか」
「はーくんは何か乗りたいのとかある?」

 パンフレットを覗き込んだ葉月は「うーん」と唸って口元に手をやった。

「吹雪が行きたいところでいいよ」
「もー、はーくんまたそんなこと言ってる」

 不満そうに頬を膨らませた吹雪が、これまた不満そうな目で葉月をじとりと見つめる。

「はーくんいっつもそうなんだから、今日くらいはーくんが行きたいところ行こうよ」
「んん、そう言われてもなあ」
「言ってくれるまでここから動きません」
「ええ……」

 困ったな、と葉月は心の中でひとりごちる。主張ができないわけではないが、どうも相手を優先してしまう節があるのだ。自覚はしているのだが、気付いていても直せないし、あまり直そうとも考えていないのが本音である。とりあえず何か言っておかないといけない気がした葉月は、そこでふとパンフレットに描かれた観覧車を見てふむ、と声を漏らした。

「じゃあ、観覧車とか」
「観覧車! ふふー、はーくんったらロマンチストー」
「そうかな。ほら、ここ景色がいいみたいだし」

 吹雪の言葉に内心ぎくりとした葉月だったが、そこは何とか言い訳を返して話を逸らす。

 ——そう、観覧車でもう一度告白を試みようと葉月は思ったのだ。観覧車で告白なんてベタな展開だけれど、雰囲気を作るにはやはりぴったりの場所なのだ。景色のいい所で二人きり、誰にも邪魔されないし話を聞かれる事もない。告白にこんなに好都合な所は他にないだろう。

「観覧車は最後にしよっか。その方が落ち着くでしょ」
「さすがはーくんは分かってますねぇ」

 によによと笑いながら腕に抱きついてくる吹雪を「はいはい」といつものようにあしらって歩き出す。こうして少し足を伸ばして遊びに来ると、どこか心が弾むような気がする。それに今は『恋人』なのだ。その『恋人』であるのを口実にする事だってできる。葉月はちらりと吹雪を盗み見ると、彼女の手を離させてそっと指を絡めた。いわゆる恋人繋ぎだ。これくらいでは吹雪は驚きはしないだろうと踏んだのだが、彼女の手が一瞬強張ったような気がして、葉月は足を止めた。

「吹雪?」
「……なんか今日のはーくんイケメンだー」

 感心したような声で呟いた吹雪が、葉月を物珍しそうな目で見つめる。いつもの自分は吹雪の目にどう映っているのだろうと、そんな疑問が浮かんでつい声に出してしまう。

「いつものおれはどう映ってるの……」
「えー、かわいい小動物?」
「ああ、うん、そっか」

 真顔で首を傾げる吹雪に疑問を投げかけた事を後悔して、葉月は小さく咳払いをした。そこで突然吹雪が「あっ」と声を上げ、視線の先を指差した。

「はーくん、あれつけよ!」
「え? ええ……おれはやめとくよ、吹雪がつけな」

 彼女が指差したのは、よくある耳や飾りのついたカチューシャだ。店先に並ぶそれを他の来場客がつけているのは見ていたが、自分がつけるとなると抵抗感が湧き上がってきて、葉月は思わず後退る。しかし繋いだ手をぐい、と引っ張られて、葉月は「うっ」と小さく呻いた。

「一緒につけようよ、おそろいだよ」
「ううん……」
「はーくんおねがいつけて、はーくんがつけたら絶対かわいいから!」
「おれがつけてるとこ見たいだけでしょ」

 その後も「見たい」と吹雪が駄々をこね続けたので、やはり葉月は折れてしまった。黒くて丸い耳のついたカチューシャを二つ手にして会計に並んだ葉月は、隣で上機嫌に鼻歌を歌う吹雪を見て仄かに苦笑する。全く彼女には甘いなあ、と自嘲したところで店を出ると、早速吹雪が手を差し出した。

「はいはーくん、つけたげる」
「恥ずかしい……」
「こうこうのは楽しんだもん勝ちだよ」

 言い返せない葉月の頭にカチューシャがつけられる。少しの装着感がさらに羞恥を煽って、葉月は両手で顔を覆った。

「こんなの絶対侑に見せられない……」
「写真撮ってもらう?」
「それはやめような」
「えー」

 残念そうに眉を下げた吹雪だったがすぐに気を取り直したらしく、もう一つのカチューシャを見下ろしてすぐに葉月へ視線を戻しふにゃりと笑う。

「あたしにもつけて、つけてー」
「ん、ちょっと待って」

 少し頭を下げた吹雪の頭にカチューシャをつけて、葉月は「いいよ」と声をかける。顔を上げた吹雪はカチューシャの耳の部分に触れると、くるりとその場で回って葉月へ笑いかけた。

「えへへ、どう?」
「うん、かわいいよ。似合ってる」

 葉月が正直にそう言うと、吹雪はまた嬉しそうに表情を綻ばせて背中の方で手を組んだ。

「ふふ、はーくんもかわいい」
「おれはかわいくなくていいかな」
「はーくんはかわいいのー」

 ぶーぶーと唇を尖らせて訴える吹雪がおかしくて、葉月は小さく吹き出す。

 こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と葉月は思った。でもそれは叶わない。叶わないと分かっているけれど、せめて今だけは、心の底から楽しんでいたい。吹雪もそれを望んでいるはずだ。だから、葉月はいつも通りに笑った。
 
 
 
 そうしてはしゃぎながら一通りアトラクションを楽しんだ二人は、観覧車に乗るために列に並んでいた。見れば、前も後ろも男女の二人組だらけだ。この列に並んでいることに何の違和感も感じられないといえば嘘になるけれど、それでもこの瞬間に満足している自分がいる事に気付いた葉月は、吹雪に悟られないよう自嘲気味に笑みをこぼす。頭につけていたカチューシャは、今は吹雪のショルダーバッグに収められている。カチューシャはずっとつけていると頭が締めつけれられて痛くなる事を、葉月は今日初めて身をもって体感したのだった。

「観覧車って、もしかしたら初めてかも」
「そうなの? おれはいつぶりかなあ」
「だれと乗ったのか詳しく」
「ええ……多分母さんだと思うけど」
「ほんと?」

 何故か懐疑的な眼差しを向けてくる吹雪を宥め、葉月は小さくため息をつく。本当はよく覚えていないけれど、小さい頃に一緒に観覧車に乗ったのだとしたらおそらく母親だろう。もう一人の幼なじみはそういう柄ではないので、きっとそうだと結論付けておいた。

 順番が回ってきて、二人はゴンドラの中へと乗り込んだ。係員が扉を閉めたところで、吹雪が早速葉月の隣にすとんと腰を下ろす。

「狭くない?」
「うん、はーくんの隣がいい」

 そんなことを言う吹雪に「かわいいなあ」と思いつつ、それは言葉に出さず葉月は微笑む。段々と高度を上げるゴンドラの窓から外界を眺める吹雪は、その景色にほう、と息を漏らした。

「みんな小さくなってくね」
「下見るのが怖くなるなあ。吹雪は高いの平気?」
「ジェットコースターに乗っといてそれを聞きますか」
「ふは、確かに」

 吹雪の言うことはもっともだが、ゆっくりと長い間高所にいるのとジェットコースターとでは少し違うような気がしたので聞いてみたのだった。くすくすと笑ったところで沈黙が流れる。ちらりと見えた隣のゴンドラの中で男女が肩を抱き合っていて、葉月は思わず目を逸らした。

「——楽しかったね」

 ふと吹雪がそう呟いた。言葉ではそう言っているのに、何故かその表情は浮かないもので。吹雪の横顔を見つめた葉月は、一瞬息を詰まらせる。

「もう終わっちゃった」
「……、何が?」

 我ながら意地悪な質問をしたな、と葉月は思った。それでも、吹雪の口からその言葉を聞けば、思い通りの流れを作れると期待してしまったのだ。案の定吹雪は声を詰まらせたが、すぐに葉月に向き直って寂しそうに笑った。

「はーくんと恋人でいられる時間」

 きゅう、と胸が締めつけられるような感覚に陥って——ああ、もうだめだな、と気付く前に葉月は動いていた。

 細い肩を抱く。鼻と鼻がぶつからないように、柔らかい唇に触れる。意外にも吹雪は素直にそれを受け入れ、そっと瞼を伏せた。震える長い睫毛が影を作る。そんな様子を間近で見届けた葉月は、同じように目を閉じる。

 短いようで長いキス。どちらからともなく唇を離して、至近距離で見つめ合う。息がかかりそうなその距離でさえも遠く感じられて、葉月はまた吹雪へ口付けた。今度は確かめるように何度も角度を変えて唇を啄むと、吹雪は合間に甘い声の混じった息をこぼしながらもそれに応えた。脳が痺れるようなそんな気分になって、吹雪の肩を抱く葉月の手に力がこもる。

 どのくらいそうしていただろうか。気付けばゴンドラはゆっくりと降下を始めていて、それに気付いた葉月は吹雪から離れようとした。しかし、吹雪の手がそれを許さなかった。葉月の首に腕を回して、吹雪はぎゅっと体を密着させた。

 今まで互いに何度も触れてきたのに、こうして抱き合うことがこんなにも特別に感じるとは思いもしなかった。言葉すら忘れて、互いの熱を確かめるように触れ合って。葉月も吹雪の背に手を回し、やっと口を開いた。

「……ずっとこうしたかった。一日だけじゃなくて、これからもずっと、こうしたかった」

 吹雪からの返事はない。

「おれ、吹雪のこと最期まで幸せにするからさ。……だから、付き合ってもらえないかな」

 言葉と行動の順番が逆になっている事には触れず、葉月はそう切り出す。すると、吹雪はたっぷりの間を置いてすん、と鼻を鳴らし、葉月から離れて視線を落とした。そんな吹雪の反応を想定していなかった葉月は、彼女の顔を覗き込もうと背中を丸める。

「……吹雪?」
「…………っ、ふ、ぅ」

 ——吹雪は泣いていた。その青い瞳に涙の膜を浮かべ、ひくひくと肩を揺らす彼女に気付いた瞬間、葉月は頭の中でざっと音がしたのを聞いた気がした。

 彼女を傷付けてしまったのかもしれない。それとも、幻滅させてしまっただろうか。いつもそばで見守っていただけの自分が、こうして欲をぶつけてしまったのが怖かったのだろうか。どちらにせよ吹雪を泣かせてしまったことにひどく罪悪感を感じて、葉月は彼女の背をなるべく優しく撫でた。

「ごめん、吹雪」
「……っひぅ、う……」
「泣かないで」

 ゴンドラが地上に到達するまでには彼女を泣き止ませないと——そんな焦燥感に駆られて、葉月は吹雪の背中を撫で続ける。それに少し落ち着きを取り戻したのか、吹雪が顔を上げて葉月へ潤んだ視線を向ける。

「……っちが、の……はーく、あたし」
「うん」
「あたし、も……ずっと、はーくんのこと、好きだった、から」

 しゃくり上げながらも必死に言葉を紡ぐ吹雪から視線を逸らせなくなって、葉月は息を飲む。

「ずっと、がまんしてた、から……っ、嬉しくて、待ってたの……はーくんに、告白されるの、ほんとは……あの時、も、嬉しかった、のにぃ……っ」

 ぽろぽろと吹雪の目から涙が溢れて落ちていく。葉月が慌ててポケットからハンカチを取り出し差し出すと、吹雪はそれを受け取って顔を覆ってしまった。そうしているうちにゴンドラは地上に戻って、係員に扉を開かれる。吹雪を見た係員がぎょっと目を丸くしたのが分かって、葉月は吹雪を連れてそそくさとゴンドラから降り、その場から離れた。

 近くにあったフードコートの端のベンチへ吹雪を連れてきた葉月は、彼女の前にしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。まだ顔にハンカチを押し当てていた吹雪は、しばらくするとようやく手を下ろして葉月と目を合わせる。赤くなった吹雪の目元を指先でそっと撫で、葉月はいつもの柔らかい笑みをこぼす。

「……さっきのは返事として捉えてもいいの?」
「…………」

 またすん、と鼻をすすった吹雪は一瞬だけ間を置いて、それからこくんとひとつ頷いた。その反応に心の底から安堵して、葉月は大きく息を吐きながら項垂れた。

「はーくん……?」
「……いや、ううん、よかった」

 少しくぐもった声でそう呟いて、葉月はもう一度吹雪を見上げる。今の自分の顔が吹雪にどう映っているのか分からなかったけれど、葉月にはそれを気にしている余裕はなかった。告白を考えていた時やその最中よりも、今の方が胸がばくばくと高鳴っている。一気に緊張が解けたからだろう。胸の鼓動で自分の体が揺れているようにも感じた。

「断られたらどうしようって思った」
「そんなこと」

 吹雪がふるふると首を横に振る。

「そんなことないよ」
「……吹雪のこと考えたら、言えなかったんだ」

 葉月の言葉に、吹雪はひくりと喉を震わせた。

「付き合ったらさ、ずっと一緒にいたいって思っちゃうから。……そしたら、吹雪のこと悲しませるんじゃないかって、考えて」

 徐々に喉が詰まるような感覚がして、葉月は目を瞬かせた。それと同時、頬に生ぬるいものが伝う。それが何なのかすぐに分からなかったけれど、気付いた時にはもう遅かった。

 ——そうか、自分は泣いているのか。この涙がどういう感情によるものなのか、葉月自身にも分からなかった。嬉しいような、悲しいような、言葉で言い表せない複雑な感情が、ぐるぐると葉月の心の中を渦巻いていた。それを見た吹雪ははっと目を丸くして、心配そうに葉月の頬に触れる。

「はーくんだいじょうぶ?」
「うん、うん……、大丈夫」

 何度も頷いてみせた葉月は、無理やり笑顔を作って涙を拭う。きっと上手く笑えていないのだろう。それでもこれ以上吹雪を心配させたくなくて、葉月は溢れる涙を抑えようと唇を噛みしめ顔を上げた。

「ごめんな、嬉しくて」
「……そっか」

 葉月の言葉に僅かながら安堵の色を滲ませた声をこぼす吹雪は、次にへにゃりとふやけた笑みを見せた。赤くなった目元が緩んだ幼い表情に、葉月は脳が蕩けるような感覚を覚えた。

「あたしも、うれしい」

 舌ったらずに続いた声がどうしようもなく愛おしくて、葉月はまた視界が滲むのを堪え吹雪をそっと抱きしめる。そうすると、吹雪は幸せそうに息をついて葉月の首に腕を回した。

「ほんとはね、帰りたくなかったの。帰っちゃったら、もうはーくんと恋人できる機会なんてないと思ってたから」
「うん」
「でも、これからははーくんとずっと恋人なんだよね? ずっと、いっしょにいてもいいんだよね?」

 確かめるように問いかけてきた吹雪の肩に鼻を埋め、葉月はこくりと首を縦に振った。それがくすぐったかったのか、吹雪は軽く身動いでくすりと笑う。

「そっか……そっかぁ」

 嬉しそうに呟く吹雪から離れ、葉月はいつものように笑う。同じように表情を綻ばせた吹雪が、ふと視線を落として口を開いた。

「あたしもね、はーくんと一緒だった。さっきも言ったけど、ずっとはーくんのことが好きだったから」
「うん」
「おたがいに好き同士だったの、気付いてたけど……でも、あたしがはーくんのこと置いて先にいっちゃうの、分かってたから。だから……」
「吹雪」

 必死に言葉を繋ごうとする吹雪を制止して、葉月はふわりと微笑む。

「おれは吹雪がずっとそばにいてくれるって分かってるよ。だから、大丈夫」

 ——その言葉の意味はきっと二人にしか分からないだろう。吹雪はゆっくりと瞬きをして、それから何とも幸せそうに目を細めて笑った。

「うん。ずっといっしょ」

 やくそく、と小さく囁いた吹雪が小指を立てて葉月に見せる。それに自身の小指を絡め、葉月も同じ言葉をこぼした。

「約束な」
「うそついたら何してくれるの?」
「どうしよっかな」
「ふふ、そこはうそなんてつかないって言ってよ」

 おかしそうに肩を揺らした吹雪と葉月は、そうしてしばらく笑い合った。周りの喧騒が遠くに聞こえるこの場所は、幸いにも観覧車の中と同じくらい落ち着ける場所だった。少しして空を見上げると、もう太陽は水平線に沈み始めていて、辺りも暗くなってきていた。

「そろそろ帰ろっか」
「うん」

 先に立ち上がった葉月は、吹雪へ手を差し出して「おいで」と声をかける。その手と葉月の顔を交互に見た吹雪は、少し照れ臭そうにはにかんで葉月の手にそっと指を触れさせた。

 吹雪の手は、やっぱり他人よりも少し冷たくて。こうしてまたその体温と触れ合える事に、葉月は心が軽くなったように思えた。

 
 パークを出る途中、ふと吹雪が足を止めた。彼女の視線の先を辿り、目に映ったものに葉月は瞼をぱちくりと瞬かせる。店先に陳列されたクリーム色のくまのぬいぐるみ。それをじっと見つめ、吹雪は何かを考えているようだった。

「あれ欲しいの?」

 問いかけにはっとした吹雪が、葉月を振り返ってふるふると首を横に振った。

「ううん、ちがうの」
「でも今見てたでしょ」
「見てた、けど」

 きまりが悪そうにもごもごと口ごもり、吹雪は目を泳がせる。素直に言えないのだろうと踏んだ葉月は、吹雪の手を引いてそちらへ歩み寄った。「あっ」と声を上げた吹雪の目の前にくまのぬいぐるみを差し出し、葉月は微笑む。

「欲しいんなら買ってもいいよ」
「え……、でも」

 もじもじとどこか恥ずかしそうに体を揺らす吹雪がおかしくて、葉月は小さく吹き出した。それが気に食わなかったのか、吹雪はぷくっと頬を膨らませて上目遣いに葉月を睨みつける。

「なんで笑うの」
「ふふ、かわいいなと思って」

 正直にそう言うと、吹雪は拗ねたように顔を背けてしまう。そんな彼女の膨らんだ頬にぬいぐるみの鼻をくっつけて、葉月は高い声で話しかける。

「ぼくのこと置いていくの?」
「……うーっ、はーくんずるい」

 観念したようにぬいぐるみを抱いた吹雪は、やはりまだじとりとした目で葉月を見たが、それを気にせず葉月はふわふわと笑った。

「ほら、連れて帰るんでしょ?」
「はーくんのたらし」
「心外だなあ、吹雪以外にこんなこと言わないよ」
「……」
「いててて、頭ぐりぐりしないで」

 肩に頭を押し付けてくる吹雪をよしよしと宥め、葉月はそのまま彼女を連れて店内のレジへと向かった。

 吹雪のわがままなら何だって聞いてやりたいと葉月は思う。それは今までもこれからも変わらない。今までは吹雪の事ばかりで、自分の気持ちを押し殺したことも少なくはなかった。

 ——でも、これからは。いつか来るその時まで、いや、その後もずっと、この気持ちに嘘をつかないでいいのだから。

「吹雪」

 店を出たところで、葉月はぬいぐるみを大事そうに抱く吹雪をまっすぐに見つめ——いつも通りに微笑んだ。

「好きだよ。愛してる」

 その言葉を聞いた吹雪は一瞬目を瞠って、それから幸せそうにはにかんだ。

「うん、あたしも。はーくんがすき。だいすき」

 
 ——愛してる、と。

 彼女の口からこぼれた言葉は、いつまでも葉月の心に残ったまま。

 
 二人は、あの夏を迎える。
 
 
 
 
 
 
 ——吹雪にとって葉月はとくべつで、たいせつな存在だった。最後の最後までわがままを突き通してしまったけれど、彼はいつも「しょうがないなあ」と笑って許してくれた。柔らかく細められた目で見つめられれば、爪先が痺れるような、喉の奥がくっと締めつけられるような、そんな思いを抱くのだ。でもそれは決して不快なものではなくて、むしろ吹雪にとっては心地良い感覚だった。けれど、それを恋という言葉で片付けられるのかと言われれば、吹雪はそうは思えなかった。自分の心に渦巻くこの感情は、どうしたって言葉で表すことのできない、とくべつなものだ。たいせつにしたい思いだ。

 しかし、自分に残された時間は無情にも徐々に少なくなっていく。——人よりも長くは生きられない事を吹雪は受け入れていた。受け入れたつもりだった。それでも、生きて葉月のそばでいられる事が何よりも幸せだと。そう気付いてしまった時、吹雪は初めて涙した。

 大人になる前に、自分は死んでしまう。それは逃れられない事実だ。受け入れなければいけない現実だ。でもいざ蓋を開ければ、吹雪の心は痛がっていた。

 だからこそ吹雪は、最期までだいすきな葉月のそばにいる事を望んだ。それが自分のためにできる、唯一のわがままだった。そして、葉月に対する精一杯の愛情表現だった。

 でも、あの時二人で交わした約束が、二人の在り方を変えた。それで何かが大きく変わるということはなかったけれど、二人の間にあった見えない壁が崩れて消え去ったのは本当だ。

 ——訪れる最期の時には、どうしても。彼に——葉月に見届けてほしかった。

 それ以外はもう、何も望まないから。だからどうか、せめて、自分が自分でいられる、その時まで。

 
 部屋に残されたあのくまのぬいぐるみは少し色褪せてしまったけれど、今も思い出の中ではきれいなまま、そこにいる。

 
 果たして、吹雪の願いは叶ったのだ。


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