Untitled(3768文字)
彼女がごくごく普通のあどけない少女だったら、と考えた事がある。
自分に向けられる幼い笑顔も、他人より少し冷たい体温も、全てになんの後ろめたさも感じる事がなかったら。
彼女が大人になる事を許されていたら、そうしたら。
葉月の家は普通の家庭というには少し特殊で、霊やあやかしと関わる家業を生業としている家だった。家系というものもあり、自分の家が立派な家柄である事は葉月もよく分かっていた。だから、あの日あのような話が持ちかけられる事も、頭の隅では理解していた。
——許嫁。
この言葉を聞く事に、特に驚いたりはしない。葉月の家はそういう家柄だし、そんな話が出てもおかしくはない。将来を約束される事は、葉月にとって深刻に考えるものではなかった。許嫁の候補に挙げられたのが、彼女——吹雪でなければ。
どうしてそんな話になったのか分からなかった。吹雪は大人になる前に死んでしまう身で、先などないのに。未来など、約束できないのに。救う手立ても、あるのかどうかさえ分からないのに。世間話のように軽くではあったけれど、彼女の父親からそんな話が持ちかけられた事が理解できなかった。だから、辞退したのだ。叶えられるはずのない約束など、したくなかった。彼女をそんな浅はかな約束で傷付ける事の方が恐ろしかった。
とくべつな、たいせつな存在。だから、自らの手で未来を遠ざけた。それが正しいと思ったのだ。
彼女が、吹雪が今までのように笑ってくれれば、それだけでよかった。この話は吹雪には話さない。知られてはいけない。だって、それで彼女との関係が崩れてしまうのが怖かったから。
あの笑顔が見られなくなったら。悲しませてしまったら。距離を、置かれてしまったら。
そんな事を考えるだけで、鳥肌が立った。あの笑顔が向けられるのは、自分だけ。——そう、自分だけなのだ。
人当たりが良い彼女だったけれど、それはあの見た目故のもので、学校での吹雪は「良い学生」を演じたものである事を知っている。蒼銀の髪と深い青の瞳の彼女。ただでさえ目立つ容姿をしているのだから、そうせざるを得ないのだ。
本当は悪戯っぽい笑い方だってする。じゃれついてくるような子どもっぽいところもある。それを、ほとんどの者は知らない。知っているのは、自分とほんの一握りの友人だけ。だから、彼女のとくべつでいられる事が嬉しかった。幸せ、だった。それ以上の事も、それ以下の事も、望んでいなかった。
そこで一度思考は途絶えた。からからと玄関の引き戸が開かれる音が聞こえたからだ。吹雪が帰ってきたのだと分かって、葉月はいつも通りを演じるためにふう、と息を吐いた。
「はーくん、ただいま!」
「おかえり、吹雪。外寒かったでしょ」
「うん、もう冷え冷えー」
そんな事を言いながら抱きついてくる彼女が愛おしくて、笑みがこぼれる。
恋人でもなんでもない、ただの幼なじみ。その関係に満足している。
多くは望まない。吹雪が笑っていられればそれでいい。それは紛れもない本心だ。自分の望む事だ。そうして「はーくん」と呼んでくれるだけで、幸せなのだ。
「手え洗いな、お湯にしてあるからあったかいよ」
「はあい」
台所に向かう吹雪を見送って、葉月はまた息をつく。どうしてあの話題を今思い出したのか分からないけれど、彼女の顔を見るとどうでもよくなってしまった。いつものように笑って、いつものように過ごそう。それで今日を終えて、またなんでもない明日がくるのだ。
そうなる、はずだった。
夕食を終えて食器を洗っている時だった。吹雪がぱたぱたと駆けてきて、葉月の服の裾を引っ張った。
「ん、どうした?」
「今日ね、クラスの子とお話してたんだけど」
「うん」
「葉月くんと付き合ってないの? って聞かれたの」
それを聞いて思わず咳き込んでしまった。一体全体どういう話をしていてそんな話題になったのか予想もつかないけれど、周りから見ればそういう風に捉えられていてもおかしくはないのかなあ、という自覚はある。それだけに、その話題を吹雪から持ちかけられると気まずいというか、複雑な感情になってしまうところはあった。
「ち、ちょっと待って、お皿洗っちゃうからそっち行ってな」
「うん」
居間に戻っていく吹雪から視線を手元に落とし、葉月は残りの食器を洗ってしまって振り返る。ちょこんと机の前に座っている吹雪の隣に腰を下ろし、葉月は咳払いをして「それで」と切り出した。
「なんでそんな話に……?」
「うーん、恋人のこととかそういう話してる時にはーくんの話題になってね、二人って付き合ってるんだよねーって言われて」
なんでもないように言う吹雪は、不思議そうに首を傾げている。
「それで、吹雪はなんて答えたの?」
「だいすきだって言ったよ」
「ああうん、そっかぁ……」
躊躇いもなくにそう告げられて、葉月は苦笑いを浮かべながらううんと唸ってしまう。彼女が自分を好きでいてくれている事は、聞かなくても分かっている。そうでなければ、あの笑顔は向けられない事も。自分が彼女のとくべつな存在であるとも自負している。やはり嬉しい気持ちとなんとも言えない感情が混ざり合って、唸り声以外に言葉が出なかった。そんな時、吹雪が口を開いた。
「あのね、はーくんはとくべつなの。はーくんはあたしの幼なじみで、ヒーローで、おにいちゃんみたいな存在だから。はーくんがいてくれたら、あたしはしあわせ。はーくんのこと、だいすき」
甘ったるい声で言ってふにゃりと表情を崩し、吹雪は幼い笑みを見せた。
彼女からのとびきりの愛情表現を、自分は受け止めてやる事しかできない。いや、それすらままならないのだ。お互いがこんなにもとくべつだと思い合っているのなら、付き合う事だってなんら疑いはないはずなのに。恋人になる事で幸せになれるのかと問われると、葉月はイエスとは答えられなかった。
彼女の結末を知っている。付き合ってしまえば、その関係に未来がないまま終わってしまう事も分かっている。それは吹雪も一緒だ。吹雪が自分とどういう関係でいたいのかまでは分からなかったけれど、今の言葉を聞く限り、きっとそういう事なのだろう。
葉月と吹雪は幼なじみで、それ以上でも以下でもない。それが二人にとっての幸福なのだ。
でもこの時、彼女の言葉を聞いて、笑顔を見て、望んでしまった。未来を求めてしまった。彼女を自分だけのものにしたいと、思ってしまった。その時にはもう、遅かった。
淡い桜色の柔らかな唇に触れる。他人より少し冷たい体温を肌よりも敏感な部分で感じて、脳が痺れるようだった。静寂がやけに耳に突き刺さる。ほんの一瞬のはずなのに、その間はとても長く感じられて。
唇を離した時に見た吹雪は、ただ呆然と自分を見つめていた。
「……ごめん、吹雪」
至近距離で呟く。その声は自分のものだと思えないほど震えていた。そして、頬を流れたもののあたたかさに気付く。
「はー、く……?」
「ごめん、吹雪。ごめん」
一度溢れてしまったそれはもう止める事ができなくて俯く。ぼろぼろと、涙がこぼれた。
彼女のとくべつでいられるだけで、それだけでよかったはずなのに。誰にも汚されない、きれいなままの彼女でいてほしかったのに。幼なじみのその先の、辿り着けない、辿り着きたくないところに、一瞬でも踏み込もうとしてしまった。愚かな自分がひどく嫌になった。こんな欲に塗れた自分を彼女に押し付けてしまった事に、恐怖を抱いた。
自分の欲深いところに触れた彼女は、どう思うのだろう。もう以前のように触れ合えないかもしれない。彼女の今までの笑顔を、失うかもしれない。でも、もしそうなってしまっても、それは自業自得だ。自らが招いた結果だ。
「はーくん、謝らないで」
吹雪の手が涙を拭って、頬に添えられる。その手は、その手だけはいつも通りひんやりとしていて、彼女に自分の体温がじわりと滲んでいくのが分かった。
許嫁の話をした時、吹雪の父親が言っていた。
——せめて死ぬ前に、女の子としての幸せを彼女に見せてやってもいいのかもしれない、と。
本当にそれは吹雪にとって幸せな事なのだろうか。結婚という結末が、彼女の望むものなのか。それなら、そこに至るまでの恋人である時間は? その先にあるはずの未来は?
彼女の全てを知っている。笑い方も、無邪気なところも、好きなものも、なにもかも。
知っているのに、蓋を開ければ本当は知らない事だらけだった。
「吹雪、ごめん……。ごめんな……っ、おれも好きだよ……」
「うん、知ってるよ」
「好きだ……っ」
涙でぼやけた視界には、彼女の表情は映らない。いつものように笑ってくれたらそれでいいのに、今の彼女にはできないかもしれない。
だって、こんな浅ましい自分を見てしまったら、そうしたら、吹雪はきっと。
「だいじょうぶだよ」
優しい声が鼓膜を揺らす。なにが大丈夫なのか問う余裕は、今の葉月にはない。
「だいじょうぶ。だから泣かないで、はーくん」
「……っうん……、うん」
「はーくん」
—— 。
吹雪が今まで何度も口にしていたその言葉は、葉月の耳には届かなかった。
この時の事は、心の中にいつまでもしまったままでいる。そうして今まで通りを貫くために、彼女の幸せを心から願う。ただ、それだけだ。
——あの約束が交わされたのは、それから半年経った後の事だった。
あの日の約束を、二人はまだ知らない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?