さようなら、彼女のいた世界(3038文字)
あの日、二人で泣きながら約束をしたのを鮮明に覚えている。
いくつもの季節が過ぎて、そうしてまた新しい夏がやってくる度、彼女の背中を見る気がする。縁側でぷらぷらと素足を揺らす、あのきれいな蒼銀の髪の少女は、いつまでも記憶の中で「はーくん」と名前を呼んで無邪気に笑っている。
そう、記憶の中で。
彼女のいない夏。蘇る、あの頃の思い出。
記憶とは悲しいものだ。だって、そこにないのだから。
彼女——吹雪と出会ったのはいつの事だったか。互いの親の勧めで初めて顔を合わせた彼女の表情は、とても固かった。生まれつき持つ蒼銀の髪。そして、見えざるもの——霊やあやかしが見えてしまう体質。彼女はそのせいで周りから仲間外れにされ、いじめられ、心に傷を負っていた。
そしてもう一つ。彼女を蝕む呪い。
これも生まれつきのものらしく、うなじに刻まれた九つの痣は、時計の針が進むようにじわりじわりと消えていく。それが全て消えた時、彼女は——吹雪は、死んでしまうのだという。自分もまた彼女と同じように、霊やあやかしの存在が見える体質だった。彼女の気持ちは分からないでもない。いや、よく分かる、つもりだった。最初は話しかけても全く距離が縮まらなかった。心を閉ざしていた彼女に近付くのは容易ではなかった。それが、あやかしに襲われ、彼女を助けた事で変わり始める。それからは、彼女は徐々に笑うようになっていった。
痣が少しずつ消えていく中、中学三年の頃の夏休み、自分の住む家へと吹雪は転がり込んできた。残り少ない時間を、一緒に過ごすためだった。
彼女が家に来てからは、ありふれた日常が流れていった。無情にも、というには実に平凡で、穏やかな日々だった。二人で買い物に出かけたり、アイスを食べたりした。友人達と祭りにも行った。たくさん思い出を作った。
——最期の日を、迎えるために。
「はーくんただいま! しろくま買ってきたよ!」
サンダルを脱ぎ捨てて居間へ駆けてくる彼女を振り返る間もなく、軽い衝撃に襲われる。他人よりも少し冷たい体温が腕に伝わって、抱きつかれたのだと理解した。
「おかえり、暑いよ吹雪」
「しろくま食べようよ、はーくんの好きなしろくまだよ」
「わざわざ買ってこなくてもよかったのに。ありがとうな。先に手ぇ洗っておいで」
「はあい」
スーパーの袋を差し出す彼女は素直に言う事を聞いて、ぱたぱたと洗面所へ向かっていく。そんな様子にくすりと微笑む。
こんな日々が、いつまでも続けばいいのに。でも、それも叶わない。彼女は大人になる前に死んでしまう。そういう運命なのだ。
吹雪が洗面所から戻ってくる。今の吹雪は、あの頃の記憶の中にいる彼女とは全く違う、満面の笑みを浮かべている。この笑顔を守りたい。素直にそう思う。
「溶けちゃう前に食べよ」
「そうだな。吹雪もしろくま買ってきたの?」
「あたしはチョコのー」
机に置いておいた袋の中から、彼女は嬉しそうに氷菓子を取り出して、軽やかに鼻唄を歌う。もうすぐその命が尽きてしまうかもしれないというのに、彼女はいつも明るく振る舞っていた。一つの陰りもなく、寧ろ潔いほどに晴れやかな姿に救われているのはこちらの方だ。だから、彼女の限りある命について深くは追及しないようにしていた。
ある日を境に、吹雪の笑顔が少しだけぎこちなくなった。幼なじみである自分は、目敏くその様子に気付く。彼女は上手く隠しているつもりだったのだろう。夏虫が鳴く夜、縁側でひとり蹲っていた彼女に、そっと声をかけた。
「吹雪?」
吹雪はびくりと肩を揺らし、振り返った。その顔は、酷く強張っていた。
「はー、く」
「何かあった?」
問いかけると、吹雪は押し黙って俯く。その背中にそっと触れると、彼女は今まで口にしなかった言葉を零す。
「あたし、死にたくない……」
気丈に振る舞い、その時がくれば仕方のない事だと、何でもないように言っていた彼女が。……今になって、そんな事を言う。
「はーくん、こわい。死んじゃったら、なんにもなくなっちゃう、こわい……っ」
この時、彼女の言葉の意味を自分は半分も分からなかった。でも、続いた言葉に背筋が凍りついた。
「死んじゃったら、あたし、化け物になっちゃうって、父様が……」
その後も彼女はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
呪いは彼女の命を奪うだけでなく、別のものに作り替えてしまうこと。そうなれば、自分という存在はこの世から本当に消えてしまうこと。
霊というものが実際にいる事を知っている。だから、彼女が霊とは違う別のものになってしまえば、そうなる事も許されないのだと悟った。死んでもまだ、同じ場所にいられると思っていたのに、と。彼女は目に涙を滲ませながら呟く。
だから、と、吹雪は続ける。
「だから、ね。あたしが化け物になっちゃったら……最期の時は、はーくんの手で終わらせてほしい」
言葉の意味が理解できなかった。
「……吹雪? 何言って」
「お願い」
吹雪の頬に一筋涙が伝う。彼女の望みはできるだけ叶えてやりたいと思う。だから、夏休みに急にやってきた彼女を家へ送り返したりもしなかった。いつでも「仕方ないなあ」と割り切って、彼女を許してきた。でも、今目の前に突きつけられた要求は、あまりにも残酷で。
正直、まだ諦めてはいなかったのだ。彼女が死ななければならない現実を覆す何かがあると信じていた。信じたかった。だから、彼女から最期についての事を言及されたくなかった気持ちもあった。
「そんなこと、言わないでよ」
口をついて出た言葉は想像していたよりも震えていて、ああ、だめだなと思った。こんなつもりじゃなかったのに。ただ落ち込んでいる彼女を励まして、いつものように二人で肩を抱き合って笑うはずだったのに。
「ごめん、ごめんね、はーくん、ごめ、なさい」
泣きじゃくる彼女の姿は痛ましかった。
これが彼女の望みなら。本当に望む事なら、自分にしか叶えられないなら。それを否定するなんて、自分にはできない。涙で彼女の泣き顔がぼやけて見える。
「…………ほんとに、そうなったら」
いいよ、と。
それだけしか言えなかった。
二人で泣きながら約束をしたのを、鮮明に覚えている。
約束は果たされた。あの日、彼女は自分の手で終わりを迎えた。今日と同じ、入道雲の高く登る快晴の夏だった。
他人よりも冷たかった彼女のぬくもりを忘れられない。忘れたくない。笑顔も、泣き顔も全部、忘れる事はできない。
愛おしい彼女。付き合っていたわけでもない、ただの幼なじみ。それでも、彼女は自分にとってとくべつな存在だった。
大切な存在、だった。
——ああ、やっぱりだめだなあ。
この季節になると、どうしても。受け入れたはずの真実が、今でも夢なんじゃないか、と。浅はかな希望を抱いてしまうのだ。
愚かだと思う。あの時だって結局、彼女を裏切る事ができなくて、願いを聞き入れたじゃないか。それで彼女の中の何かが守れたのなら、それでよかったはずなのに。この気持ちに終止符を打つはずなのに、どうしても一歩が踏み出せずにいたのに。
彼女のいないこの世界にはまだ慣れないままだ。でも、それも終わりにしようと思う。
受け入れよう。彼女のいない世界を。あの頃の、子どもだった頃の自分を。彼女を置いて、大人になる自分を。そう、言い聞かせる。
今日も空には高く雲が登っている。あの日と同じように、空高く、雲が登っている。
「吹雪、おれ、ちゃんとさよならできたかなあ」
——はーくんのばか。さよならなんてできないでしょ。
彼女の声で、そう聞こえたような気がした。
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