もう社会に魂を売り渡さない

他人から見たらともかく、今の僕の自己認識としては、僕の唯一最大の黒歴史は、政治に夢中になったことです。
僕は小学校高学年頃から少しずつ政治に興味を持ち、中学高校大学を通して政治はおおむね僕の興味の大きな部分を占めていました。政治の本やネットの記事などを読み漁り、いつか権力を握る日のことを夢見ていました。
政治に興味を持つこと自体は悪くないのかもしれません。むしろウクライナ侵攻に衝撃を受けて世界中が声を上げて平和を求めている中で、興味を持つべきでないというのは倫理を欠くと思われるかもしれません。しかし、いかに倫理的に見える振る舞いであってもその背景には精神分析的な問題があります。
僕が政治に興味を持ったのもその時の僕にとっては極めて倫理的でした。代わる選択肢はあり得ませんでした。それらは倫理的でないように感じられたからです。しかし、倫理を貫徹しようとしていたわけでもありません。そこには自分の欲望と社会の倫理が交錯していました。しかも欲望というのはルサンチマンによって幻出された欲望です。簡単に言えば、他人と比べて満たされていなかった分を、いやそれ以上のものを、権力によって手に入れてやるということであり、自分の求めるものを権力の行使によって手に入れてやろうということでありました。
しかし、いくら政治を研究し、情報を収集しても自分が強くなる感覚は全く得られませんでした。むしろ少しずつ政治への強烈な関心は自分にとって有害なものなのではという疑念が生じていきました。実際に初めて政治的な集まりに参加した時にその思いは一気に強まりました。自分と同じように、正義感と欲望そして社会への憎悪と何より恐怖を抱いている人々の姿を初めて直に見た時に、あー僕はここにいちゃいけないな、と気づきました。まずキモい。下は大学生から上は60代までいましたが、自信なさげな猫背の男子大学生やニート感溢れる30代挙動ヤバ男、全く化粧っ気のない乾ききった40代女などで溢れる激キモ空間でした。見た目や挙動がキモいだけではなく、オーラがどんよりと重く濁っていました。とはいえその後コロナ禍が始まったこともあって、選挙の手伝いをしたり国会議員に会いに行ったりしてしまったのですが、やはり選挙の手伝いの時遭遇した人たちは魅力的とは言えませんでした。そして議員や秘書たちに会ったときに感じたのは、さすがに底辺活動家とは違ってキモいわけではなかったけれど、人間として全く面白くないな、政治の世界には魅力がないなということです。文学部の美美だと言ったらそんな変なところなの?と言われた。別にムカついたわけではなく、向こうもカンボジア視察の時のアンコールワットの写真とか見せてくれて建築の話をしてくれました。しかし、経済学部や法学部を出てメガバンクに行く人生しかないと本気で思っている人がいるのかと内心驚きました。でもこれは少し就活した時に見た会社員の人たちと通底するものだったと思います。経理が趣味で、休みの日も簿記の勉強をすると言い切っていたおじさんがいたけど、信じられなかった。
僕たちは多分、受験をするくらいから社会的地位の獲得ゲームを意識し始め、やがてそれしか考えられなくなります。早ければ就活生になった頃に洗脳が完了する。そうすると、学歴、地位、金、権力のことしか考えられなくなる。考えてはいけないわけではない。社会なくして人間は効率的に生きられないのだから考える必要はあるし、出世しなければ損をするのだから積極的に考えるべきなのです。社会に問題があっても放置すべきだというのはおかしいわけで、社会変革やそのための権力掌握を考えるのは間違っていない。しかしそれは、地位を求めることの無意味さ、金を求めることの不毛さ、権力を求めることの愚かさを十分知っているからこそ可能なのではないか。
そして何より、権力、金、地位、学歴を求めるのは精神の問題である。恨みを捨てられない人間は恨みを晴らすために社会的地位を求めるのだ。それは端的に弱さでもある。ルサンチマンを抱えた人間を支配するのは簡単だ。それが鬼舞辻無惨の手口だ。鬼は人間を支配できるが、無惨の支配からは逃れられない。逆に、ルサンチマンを克服した人間は、誘いを受けても鬼になることはない。無惨に支配されることはないのだ。
単純に生きなければならない。恐怖にかられて人を支配しようとしてはいけない。愛を生きなければならない。求めても拒まれるかもしれない、受け入れられても期待外れかもしれないと恐れて武装してはいけない。自分が求めることを無防備に求めるしかない。
自分が求めることを無防備に素直に求めるしかないのだ。

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