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民藝って結局のところなんだったのか?超解説

前回のおさらい

明治になって工芸という言葉が生まれた。
工芸に対してcraftという訳が当てられた。
工芸が美術工芸と伝統工芸にわかれた。
工芸を担うのは工芸家。
民藝は工芸家が担う工芸に対するカウンターカルチャーで誕生した。

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民藝のことはポッドキャストでもお楽しみください。
https://open.spotify.com/episode/2zkV7CWwXnCK4zXkB7s9rp?si=XgdStOqMR1-fNi574CygyQ

民藝の例

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主人公は柳宗悦

(1889明治22年~1961昭和36年)
雑誌とか雑談の「雑」を愛し抜いた男。民藝はほんわかした癒し系のものではなくピリピリした思想。

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民藝はものではなく思想

民藝を「もの」としてとらえると関係ない。が、民藝は「思想」であり「運動」。であれば、どうやって思想が形成されたかが非常に重要になる。
無名の職人がつくったものがすべて民藝というわけではない。

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東京麻布で生まれた柳は、学習院高等科のころ、後に文豪として名を馳せる武者小路実篤や志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を発刊。エリートによる文芸&美術誌。雑誌を使って主張を伝えていくという手法を学んだ。

ロダンを日本に紹介したのも白樺だった。

白樺とは?

雑誌「白樺」に依拠して、キリスト教、トルストイ主義、メーテルランク、ホイットマン、ブレイクなどの影響を受けつつ、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げた文学者、芸術家たち。1910年に創刊され、23年、関東大震災で幕を閉じた「白樺」は、足かけ14年、全160冊というその刊行期間の長さ、同人の変動の少なさ、影響力の大きさなどからして、近代日本最大の文芸同人誌と言える。「白樺」には同時に、ロダン、セザンヌ、ゴッホ、マチスなどを紹介した美術雑誌としての側面もある。その意味で「白樺」は、文学と美術がジャンルを超えて響き合う、総合芸術雑誌でもあった。創刊に携わった者の多くは、武者小路実篤、志賀直哉、里見トン、柳宗悦、郡虎彦、有島武郎、有島生馬など学習院出身者である。思想面での代表者、武者小路に典型的なように、総じて「白樺」の自我中心主義や普遍主義やコスモポリタニズムは、あるべき前提と社会意識とを欠いた、良くも悪くも楽天的なものであった。自我中心主義を小説の技法として純化し、大成することによってそんな「白樺」を突き抜けたのが志賀であるとすれば、思想、行動の面でそれを逸脱していったのが有島武郎であり、両者の振幅がそのまま白樺派の奥行きを形作っている。
(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)

20歳ころバーナード・リーチと知り合う

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このころイギリス人陶芸家(後に)バーナードリーチと知り合う。東京帝国大学哲学科を卒業した柳は宗教学者として世に出る。

20歳~25歳ウィリアム・ブレイクとの出会い

当時、柳はイギリスの宗教詩人で画家であったウィリアム・ブレイクの、おのれの直観を重視する思想に大きな影響を受け、芸術と宗教に基づいた独自思想をもつようになる。直感を重視する思想→ここめちゃくちゃ重要。

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25歳、朝鮮の白磁を我孫子で知る

朝鮮半島で教師をしていた柳の信奉者浅川伯教(あさかわのりたか)の手みやげであった李朝の小さな壺を見た柳は、そこにまったく新しい美を発見。直観によってみやげもののツボに美を見出し、思想としての民藝が誕生した瞬間。何気ない雑器にこそ美が宿るという民藝の根本思想が生まれた。

「その冷な土器に、人間の温み、高貴、荘厳を読み得ようとは昨日まで夢みだにしなかった」(「我孫子から 通信一」1914年)

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26歳

朝鮮の民衆雑器への興味を募らせて朝鮮半島へ行き、多種多様な工芸があることに感銘を受ける。この頃濱田庄司と知り合う。ハマショーはバーナードリーチとともにイギリスへ。

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https://www.gallery-st-ives.co.jp/BernardLeach-Kiln.htm

35歳くらい全国の手わざと出会う

江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化があることを知る。

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今の私たちのようにほかの地域の手仕事を見る機会はなかった。

36歳、民藝という言葉が誕生

このころ河井寛次郎と知り合う。彼らと美について語らううち、「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という民藝の考え方が定まる。民衆的工芸=民藝。

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思想としての民藝誕生から成立まとめ

イギリスの詩人に影響を受け「直観」を重視する
→直観により朝鮮のお土産である雑器に美を見出す
→朝鮮でさまざまな雑器と出会う
→木喰の素朴な仏像にひかれ全国を調査
→地方の工芸が持つ魅力に惹かれる
→無名の職人がつくった雑器にこそ美がある民藝思想の完成。ものをつくったわけではなく、それまでなかった美の概念をつくった。

民藝は無名の人がつくった物の中から美を見出す運動

繰り返すが、革命的な思想でほんわかした癒し系ではない。当時まだ機械生産は行き渡っておらず生産物は工芸によって生み出された。無名の職人によって大量に生産されたものの中から偶然生まれた美を見出す。作り手は美を見出そうとしてはいけない。宗教心に似ている。他力の美。

なぜ運動と名がつくようなものにまで発展したのか?

発展したというか発展させたというか。それだけ危機意識があった。全国に民藝館をつくる、雑誌を作る、モデルルームを作る、百貨店で民藝展を開催する。用の美である以上つかってこそはじめて完成する美であることを伝えようとした。

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無名の人がつくった物の中から美を見出す運動がなぜ革命的だったか?

当時の工芸の状況を思い出す必要がある。工芸の主役は工芸家=作家。無名の職人がつくるものは美の対象物=工芸ではなかった。それに対して無名の職人が大量につくるものの中に偶然生まれる美があるとした。それまで「美」は意図してつくるもの
→「美」は発見するもの。美のコペルニクス的転回。

ひとつ問題がある。
ではその美は誰が発見するの???

誰が純粋な直感をもって美を発見するの?柳宗悦が千利休に例えられるのもわかる。柳は結果的に民藝において「美」を見出す神の役割を担うことになったのでは?さらに運動が産業になってしまった。

民藝協会HPより。

柳の説く「民藝品」とは具体的にいかなるものであるのか。柳は、そこに見られる特性を次のように説明している。

実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、目に見えない大きな力によって支えられているものである。

そこに宿る民藝美の内容を、柳は「無心の美」、「自然の美」、「健康の美」であると説明している。柳にとっての美だった。

工芸家による工芸しか美として認められなかった当時の状況。いろんな美があっていいということを言いたかったのでは?何かを伝える時は過激にならなければならない時がある。あの人がつくったものだから美しい=美への責任放棄

47歳で日本民藝館設立


国立美術館に寄贈しようとしたが断られ、47歳の時に大原孫三郎の資金援助を得て開設したのが目黒の日本民藝館。72歳で死去するまで民藝館を拠点に活動し続けた。

日本民藝館 公式Webサイトより
柳宗悦の審美眼を通して蒐められたもので、日本および諸外国の新古諸工芸品約17,000点を数える。中でも、朝鮮時代の陶磁器・木工・絵画、丹波・唐津・伊万里・瀬戸の日本古陶磁、東北地方の被衣(かつぎ)や刺子衣裳、アイヌ衣裳やアイヌ玉、大津絵、木喰仏、沖縄の陶器や染織品、英国の古陶スリップウェアなどは、質量ともに国の内外で高い評価を受けている。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功ら工芸作家の作品も収蔵している。

日本民藝館 公式Webサイトhttps://mingeikan.or.jp






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