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誰も教えてくれなかった源氏物語本当の面白さ

このnoteは企業の社内向けセミナーの資料を公開したものです。ところどころ文章につながりがないところがありますが、ご容赦のほどよろしくお願いいたします。

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前ふり

13年前(2008年ころ)源氏物語にどっぷりハマっていた。雑誌の『和樂』で林真理子さんによる源氏物語を題材にした小説「六条御息所源氏がたり」という小説の担当を5年以上していた。

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尊敬するデザイナーの木村裕治さんとのミーティングで源氏物語だからといって十二単みたいな装丁にはしたくないよねで意見一致。アメリカのWingate Paineさんという聞いたこともないカメラマンの写真集の写真を使用することに。著作権を持っているエージェント探すの苦労したなぁ。

小説を始めるにあたって私たちが「源氏の伝道師」と呼んでいた紫式部研究家の山本淳子先生にいろいろとお話を伺った。その話があまりに面白かったので、「誰も教えてくれなかった源氏物語本当の面白さ」という新書まで作った。

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源氏物語は奇跡の物語

まずは源氏物語のことをよく知らないという方のために基礎知識から。
さて、源氏物語を書いたのは誰でしょう?

それは紫式部。実は紫式部ってことがわかってること自体が源氏物語が奇跡の物語であることを証明している。

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抱一応挙等粉本『紫式部』国立国会図書館デジタルコレクション

源氏物語は約1000年前にひとりの女性によって描かれた物語。そして、ドナルドキーン先生も書いていらっしゃるが、おそらく世界最初の長編小説である。諸説あるが、ヨーロッパの近代小説に比べると明らかに数百年早い。それを一人の女性が書き上げた、これが最初の奇跡ポイント。

なぜ紫式部が書いたってわかること自体が奇跡なのか?

源氏物語が登場する前、物語は格下の大衆向けエンターテインメントだった。言葉は悪いけど、子供騙しみたいなって感じ。格が高いのは漢詩とか和歌だった。だから物語の作者が誰なんてどうでもいいことで、実際に源氏物語以前の物語の作者は特定できない。平安時代の物語で、しかも皇族以外の作者が特定できていること自体とんでもない話。

源氏物語は紫式部というひとりの女性が日本の文学を創造し、それ以前とそれ以後ではまったく違う世界にしてしまったというプロジェクトX。

物語の次元を上げありとあらゆる作品に影響を与えた

源氏物語によって物語という存在が格下の大衆向けエンターテインメントから、貴族や天皇の妃、果ては天皇自身まで楽しむ芸術作品に変わった。平安時代上流貴族たちがこぞって写本を求め、その後も当時最高の絵師たちが手がけた絵巻物なども作られた。

東京の五島美術館や名古屋の徳川美術館が所蔵する源氏物語絵巻は、鎌倉時代初期に当時最高級の贅をつくして作られた写本。絵のレベル、料紙装飾、書の書きぶり、もうパーフェクト。物語があのようなレベルで写されたということ自体、源氏物語が当時の貴族たちにとってどんな存在だったのかがわかる。

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その後は上流階級の人々が秘伝のように楽しんできたが、江戸になって出版技術が進化すると、一気に庶民にまで広がっていった。柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)などが大ベストセラーになり、源氏物語はさまざまな形で人々を魅了した。

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「偐紫田舎源氏. 七編下」 国立国会図書館デジタルコレクション
柳亭種彦という武士階級で、かつベストセラー作家による絵入り小説。舞台を平安から室町に移し、光源氏的な主人公が好色ぶりを発揮しながら将軍を守るために活躍するといういかにも江戸っ子が好みそうな話。挿絵は歌川国貞が担当。彼の絵と伴って偐紫田舎源氏は、大大大ベストセラーになった。
その人気は大奥にまでおよび、柳亭種彦が病になって執筆が中断した際、大奥の女性たちが病平癒の祈願を行なったとか。voicyでも紹介していますのでよろしければどうぞ。

いずれにしても源氏物語は平安以降も様々な文学作品を生み出し、今なお日本史上最高の小説に君臨している。谷崎潤一郎も現代語訳に挑戦してるし、彼の作品は源氏物語に影響を受けている。

与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴、時代を代表する作家たちが源氏物語の現代語訳に挑戦。谷崎は細雪が現代の源氏物語と言われることに相当抵抗があったとか。

ノーベル賞作家川端康成は室町以降の文化を理解するためには貴族文化の至高の産物である源氏物語を理解しないといけないとしている。

さらには戦時中、爆撃に苦しめられる中、源氏物語に慰めと安らぎを得たと。日本文学の研究者で日本に帰化したドナルド・キーン先生も源氏物語に出会って、あの時代の日本だけが世界史上唯一の美本主義だった。そして、そのことによって私はどれくらい救われたことかって仰っていた。

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「日本文学史 - 古代・中世篇三」ドナルド・キーン
はい、言わずと知れた私のバイブルです。

紫式部と藤原公任のオシャレエピソード

紫式部の生い立ちはそんなにわかってないが、彼女自身が書いた紫式部日記という日記から源氏物語に関してわかることがある。その「紫式部日記」にこんなやりとりがある。

相手は当時の閣僚にあたる漢詩や和歌に通じた藤原公任(ふじわらのきんとう)。当時漢詩や和歌のエリートは政治の重責も担う絶対的エース。そんな公任にあるパーティでこう言われる。「失礼。このあたりに若紫さんはいらっしゃるかな?」って。

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「伊勢集(石山切)」 伝藤原公任 東京国立博物館
「本願寺本三十六人家集」から昭和4年に分割された『貫之集』下および『伊勢集』の断簡を「石山切」という。切名は、本願寺の旧所在地である石山(現在の大阪城付近)にちなむ。 白色の唐紙と水色の唐紙を破り継ぎした上に銀泥の草や鳥が散らされている。(ColBaseより)

若紫は光源氏の正妻の紫の上のこと。賛否両論あるが、少女時代に見初めて自分好みの女性に育てて、妻にしちゃうと言う光源氏伝説の一翼を担う紫の上。

ここで重要なのは、漢詩や和歌という伝統文化に通じた藤原公任までも明らかに源氏物語を読んでいたっていうこと。これは源氏物語登場以前は考えられなかったこと。菅首相が鬼滅の刃をパロディったと話題になったが、ある意味それ以上のできごとだった。

そこで紫式部がつぶやいたとされることがいかしてる。光源氏に似た様な方もいないのに、あの物語のヒロインがいるものですか、と、聞き流した、と。

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「紫式部日記絵巻断簡」 東京国立博物館
『源氏物語』の作者・紫式部が宮中での営みをつづった『紫式部日記』を描いた作品。現在、二十数段が現存し、各所に分蔵されている。この断簡ももとは巻子であったが、昭和8年(1933)、益(ます)田(だ)鈍(どん)翁(のう)が絵巻を分け、現在の掛幅装となった。鎌倉時代王朝物語絵の代表作である。
 日本の古典文学の最高峰とも言われる「源氏物語」の筆者、紫式部(むらさきしきぶ)の日記を絵巻にしたものです。紫式部が仕えていた一条天皇の中宮彰子(しょうし)が、のちに後一条天皇となる敦成(あつひら)親王を出産した際の様子や産後のお祝いの儀式についてなど、親王誕生前後の数年間の出来事が詳細に記されています。文学作品としてはもちろん、平安時代の貴族たちの暮らしを今に伝える貴重な資料です。  これは敦成親王の誕生50日を祝う儀式の場面を切り取って、掛け軸にしたものです。画面右側、背を向けている女性が中宮彰子。画面下の男性は、彰子の父で、当時宮廷で大きな権勢を振るっていた藤原道長。そして、左は、道長の妻であり彰子の母である北の方と生後50日を迎えた親王です。  ところで、この絵巻が描かれたのは、鎌倉時代で、紫式部の時代から200年以上あとのことです。引目鉤鼻と呼ばれる人物の類型的な描き方など、平安時代の伝統的なやまと絵と同様に見えますが、よく見るとそれぞれの人物の個性や表情が表わされていることに気付きます。リアリティを求めた、鎌倉時代ならではの表現といえるでしょう。また、道長が着ているのは、鎌倉時代に流行した強装束(こわしょうぞく)と呼ばれる糊づけされた直線的な衣です。  鎌倉時代の人びとの好みを反映させた、王朝絵巻ということができるかもしれません。(ColBaseより)

さらに一条天皇は源氏物語を女房に読ませて聞きながら「この作者に日本書紀を講義してほしいなぁ。実に漢文の才能がありそうだ」って言ったとか。

そもそも紫式部は受領(ずりょう)階級の娘とされ、しかも夫をなくした子持ちの未亡人だった。

受領
平安時代中期以降,中央政界に進出しえない中小貴族が受領となり,その徴税権によって富をたくわえ,任期が終ると土着するものもあり,また富力により院政の中心勢力となるものもあった。(コトバンクより)

平安時代、夫を失うということは女性にとってとんでもないこと。 なんの後ろ立てもないし、しかも子どもまでいる。だけど、父も夫も受領で、ある程度お金だけはあった。そこで書き始めたのが源氏物語。

藤原道長が自分の娘のために書かせたものではなく、実際は夫を失った寂寥感を癒すため、趣味で書き始めた。それを友人たちに貸したところ大評判になり、その評判が道長に届き、娘である中宮彰子(しょうし)に仕え、源氏物語を書き進めたというのが本当のところのよう。

道長はなぜ紫式部をスカウトした?

いくら面白いものを書くからって、夫に先立たれた受領階級の女性。平安時代はもう血脈第一主義だから、いかに天皇に近い血筋かで全てが決まっていた。

だから、貴族たちは自分の娘を天皇の妃にして、子どもを産ませることによって権力を得ようとしていたと。

当時の天皇は後宮というところに妃たちを住まわせていた。妃たちは天皇にできるだけきてもらわなければならない。そこで思い出して欲しいのが、平安時代末期を彩った美本主義。

この平安時代末期というには本当に特別な時代で、一番価値があるものが、知性に彩られた美的趣味だった。それで和歌や書、香に秀でたものがエリートとされた。当然天皇も美本主義の担い手。その天皇の心を掴むために女性たちは後宮に知のサロンを築き、天皇の関心を惹こうとした。

当時の天皇である一条天皇には、枕草子を書いた清少納言が仕えていた定子という中宮がいて、彼女のことを溺愛していた。ただ、定子は流行り病で関白だった父親を亡くし、後ろ盾を失った。

その不幸に追い討ちをかけるように兄弟が天皇家を貶めるような犯罪を起こし、家が完全に没落してしまう。定子は衝動的に髪を切り、出家。この時定子は第一子を妊娠中だった。

父親を亡くし兄弟が天皇家に叛く。完全に没落してしかも出家をした女性を守ったのが‘一条天皇。一条天皇はこのあと、定子を中宮、つまり天皇の正式な妻に戻す。

ただ、この幸せは長くは続かなかった。この頃力を極めつつあった道長の娘である彰子の入内が決まり、定子への風当たりが強くなる。貴族たちにとって道長という強い後ろ盾がある彰子に中宮になってもらった方が政治が安定する。

定子はこの時第二子を懐妊し、出産。そのまま帰らぬ人となってしまった。この数ヶ月後に紫式部は夫を亡くし、その寂しさを紛らわすために源氏物語を書き始める。

道長の娘、彰子は入内後もなかなか一条天皇との間に子どもを成すことがなく、道長はさらに天皇を惹きつけるためのサロンを強化する。そこで源氏物語の評判を聞きつけ、紫式部をスカウトした。

紫式部も、源氏物語も、今までとは少し違ったものに見えてくる。政治色が想像以上に強い。もちろん文学史上において非常に価値が高い作品だから源氏物語は1000年以上読み継がれてきた。ただ、それだけではここまで残ってなかったかもしれない。

平安末期に栄華を極めた藤原道長と深く関係があったのもその一因。これまた源氏物語が奇跡の物語と言っても過言ではない話かも。

教科書では藤原道長による摂関政治と源氏物語は歴史と文学の話として切り離されているけど、実は密接な関係にあった。文学として読むのはもちろん面白いけど、こういう読み解きをするとより源氏物語に深みが出るような気がする。

平安時代の貴族のふたつの身分  

平安時代の貴族にとっては位階がすべてだった。では、位階は何によって決まるかというと、だいたい親の位階によって決まった。こう言ってしまうと身もふたもないが、源氏物語の主人公の光源氏は帝の息子。だからどうやっても成功しちゃう。

光源氏最大のライバルの頭中将。彼もいきなり四位(しい)からスタートしているし、だいたいが頭中将って官職がスーパーエリート。

四位というのは位階で四位のこと。で、頭中将というのは、帝の側近というか秘書みたいな役割の蔵人(くろうど)の頭と、近衛、つまりボディガードの中将を兼ねた官職。

位階は国家における序列で、官職は職務の内容。頭中将と言う官職、役職は、将来の幹部候補生で四位(しい)の位階にある人物が命ぜられた。

源氏物語では登場したときに頭中将だったので固有名詞のように呼ばれるが、その後、中納言、太政大臣とポストを上がっていく。当時は官職で呼ぶので実は頭中将は頭中将である期間はそんなになかったという。20歳くらいで四位(しい)というのは、これはもうすごいこと。

当時は官職で呼ばれていて、位(くらい)によってつける官職が決まっていた。

しつこいようだが平安時代、貴族の肩書には位階と官職がある。位階が位で官職が職務。

一度にふたつやるとわけがわからなくなるから。まずは位階の仕組みから。

位階は公務員の位のこと。平安時代の位は一位からはじまって八位とその下の初位(そい)まである。

シンプルな話だがここからが複雑になる。

一位から三位(さんみ)までは正(しょう)と従(じゅ)がある。

さらにややこしいのだが、四位(しい)から八位までは正と従にそれぞれ上と下がある。

四位以下を順番に言うと、正(しょう)四位上があって正四位下があって、従四位上があって従四位下があって、正五位上となる。で、八位の後の初位(しょい)には大と小があって、それぞれ上と下がある。とにかく全部で30の位があると覚えたい。

この基本構造がわかると、平安の人たちのことが一気に身近になる。平安貴族たちは基本的に官職で呼ばれているから。左大臣とか大納言とかさっき出た頭中将とか。その官職に就くためにはふさわしい位がある。

上流貴族と中流貴族の違いは?

位階によって平安貴族たちは厳密に区別されていた。上流は一位から三位までの位を持つ人とその血縁者。一位から三位の人々は上達部と呼ばれ政治の中枢をになった。

四位と五位は中流殿上人とも呼び、帝の住まいにのぼることができた。これ以上が貴族と私たちが呼んでいる人々。

三位(さんみ)と四位(しい)には大きな差がある。基本的に三位以上の家に生まれない限り、上流貴族にはなれなかった。収入も冗談抜きで桁が違う。一位と下流の六位では3、4桁違うかもしれない。

いずれにしても、光源氏も頭中将もいきなり登場から四位(しい)。多くの貴族たちの到達点からスタート。

四位とか五位の中流貴族が目指したのは何だったかと言うと受領だった。紫式部も受領階級の娘で、先立たれた夫も受領階級だった。

受領階級は政府から地方の徴税権を託された責任者。任期中命じられた税を徴収すればあまったものは自分の懐に入れられる。才覚ひとつでのし上がることができる、今で言うところの起業家のような存在だった。

貴族自体ものすごく数が少ない。諸説あるが一位から三位(さんみ)まで上達部は約20人。家族までいれると約100人。

四位五位は家族まで入れると約1000人。このころの平安京の人口は10万人と推定されている。

源氏物語は基本的にこのトップオブトップの上流貴族たちが繰り広げる物語。それを五位くらいの身分にあたる紫式部が書いた。そもそも自分と同じ中流階級の女性に向けて書いたとされている。

貴族の人数に関してはこちらが詳しい。

位階のまとめ

平安時代の公務員の位には一から八と、さらに下の初位(そい)まであって、一から三が上流貴族、四と五は中流。

三と四には大きな壁があって、どんなに才能があろうと絶対に超えられない。位階は何で決まっていたかというと、親の位階で決まっていた。

光源氏で知る位階と官職

いかに光源氏がエリートだったか。まず17歳くらいで近衛中将だったので従(じゅ)四位(しい)の下。上から十番目。

23歳から25歳で参議兼大将だったので正四位の上が従三位の下。もう3、4ランク上がってます。

28歳から29歳で、正二位とか従二位。

35歳で一位に登りつめると言う。

自分は最初から高い位階にいたくせに、息子の夕霧は大学に行かせちゃう。

平安時代上流貴族にとって大学は無駄以外なにものでもない。そんなものは下流の者たちが官位をえるために入るところだった。だから物語で息子の位階を落として大学に入れさせて光源氏の行動は無駄以外何物でもなかった。大学を最優秀で出た人物が得られる官位は下から八番めだった。

この時代、上着の色も位階によって決まっていたから、夕霧は元服時自分とは一生縁がないであろうと思っていた浅葱色の上着を着なくてはならなかった。それが相当ショックだったと描かれている。

実際の歴史の話をすると、8世紀以降12世紀に至る500年の間で大学を出て、大臣になったのはふたりしかいない。

そのひとりが私たちもよーくしっている、学問の神様菅原道真。なぜ菅原道真が学問の神様としてまつられるのか?彼は大学にいくような平役人からその学才をもってして大臣にまで上り詰めた。当時としては奇跡の人。

で、それに嫉妬した上流貴族たちに無実の罪をおしつけられて、太宰府に左遷。死後、平安京でさまざまな天災が起こり、道真の怒りだとされ、神として祀られたと言う。

紫式部は中流階級だったが、中流階級の男が内裏に上がっているとみっともないと揶揄している。

当時は位によって上着の色も決まっていたから五位の男が参内するとすごく目立った。紫式部は身分は低いけど、中宮や道長や公任と交流があったからちょっと天狗になってたのかも。


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