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世界的にも稀!? 実は江戸の出版文化を支えていた吉原遊廓の実情って?

遊廓と聞くとどんなイメージを抱きますか?私は安野モヨコ原作、蜷川実花監督の『さくらん』で描かれた、華やかさと強かに生きる人々の印象が強かったのですが、まさか吉原遊郭が江戸の出版文化を支えていたとは思いもよりませんでした。

こんにちは、和樂webスタッフのサッチーです。前回まで3回にわたり日本史上最強の出版人、蔦屋重三郎の人生を音声コンテンツでこってりとお話してきました。

そこで驚いたのが、蔦屋重三郎の超一流なビジネスセンスにより、吉原が文化の発信地になっていったこと! 当時大人気だった歌舞伎や大人向けの小説(洒落本)の舞台や、浮世絵の題材になったのです。世界的にみて、遊女がいる場所がこのような存在になった国・時代ってなさそうです......!

▼詳しくはこちらで紹介

じゃあ吉原ってどんな場所だったのか? 浮世絵などで描かれた煌びやかな世界とその裏側が今回のテーマ。noteでは私が意外だった点を3つを紹介します。

①なんと340年!吉原遊廓の歴史

吉原は江戸幕府ができてすぐの1618年に誕生した幕府公認の遊郭でした。というのも、新興都市を築くために大工や左官などの職人が多く集まっており、彼らの息抜きの場が必要だったためです。

吉原は1958年に売春防止法が施行されるまで、340年にわたって営業を続けました。そんなに長い歴史があったとは知らなかった...!! そのため時代によって吉原の制度も異なり、音声コンテンツでは具体的にどんな違いがあったのか、話しています。

②なんと遊女が吉原を出る術は年季明け、身請けと...死

『吉原仲の町』 奥村政信

男性にとっては夢の国、吉原は出入り口が大門(おおもん)のひとつだけで、周りは堀に囲まれていたそう。

男性は自由に出入りができた一方、遊女たちは吉原の外に出ることは許されておらず、それが叶うのは年季が明けたり、身請けされた時でした。

なお、昼と夜に営業があり睡眠時間があまり取れず、衛生状態も決してよかったわけではなかったため、性病や結核を患い、死んで初めて吉原を出た女性たちも多くいたそうです。

きっとそんな実情を江戸の人々も知っていたはず。だからこそ、遊女の中でも最上位の花魁はより一層輝いて見えたのではないでしょうか。

③これが一番驚いた!なんと浮世絵と花魁道中、歌舞伎、江戸の出版に密接な関係が!

花魁道中はなんとなく聞いたことがあるという方も多いのでは。花魁が遊女見習いの新造や男衆を連れ、仲の町という吉原の中央通りを通り遊郭から客のいる茶屋へ向かいます。今でいうパレードみたいな感じでしょうか。

『江戸名所 吉原仲の町桜の紋日』 歌川広重 1835–1858年ころ

豪華な着物を身にまとい、髪にはたくさんの髪飾り、高下駄を履いて歩くその姿は多くの人が物見遊山で集まりました。私も当時生きていたらやっぱり一度は見てみたい!

1760年ころには吉原の主要顧客は武士階級から商人に変化し、大衆化していく一方で花魁道中はどんどん華やかになっていったそうです。

その要因が浮世絵でした。1760年ころになると鈴木春信により多色刷りの浮世絵が誕生します。朱・黒・黄くらいでしか表現ができなかったものが急にカラフルに表現できる! となると花魁道中で華やかに着飾れば着飾るほど、浮世絵でも美しく華やかに描かれ、もっと花魁や浮世絵の人気が上がります。それなら、と花魁道中もどんどん豪華になっていったのでした。浮世絵のイノベーションと花魁道中の盛り上がりが繋がっていたのですね!

『萬寿嘉々見』より 溪斎英泉 1822年

そして、吉原が隆盛を極めると、浮世絵によって吉原が江戸のメディアになり、さらには歌舞伎や洒落本の舞台になり、それが江戸の出版文化を支えていった......と、江戸の文化の発展はさまざまな要素が絡み合っていたことに私は一番驚きました。歌舞伎や浮世絵ひとつだけを見ていたのではなかなか気づけないこういう目線、和樂webでもっと発信できたらいいなあ。

他にも、吉原の利用システムや、当時の妻と遊女の役割、過酷すぎる遊女たちの生活事情など、知らなかった吉原の姿がわかる内容です!

▼闇があるからこそ生き様がより光って見える、吉原の姿を音声で解説

https://open.spotify.com/episode/1PeJCOyr46cJhDUSGFSg1t?si=Rxz-XkrpTx-MjK-kRY5SFA

なお、コンテンツの冒頭でお話していた和樂webでの新たな取組、下ネタを使った和歌についてはこちら!

※アイキャッチは『扇屋見世畧』鳥高斎栄昌 1800年ころ より

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