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【かわむらという生き物】僕の人生④

台湾渡航時代

そもそも、なぜ突然台湾に行こうかと思ったのか。

それは、ニセコの環境にあると思います。

ニセコは国内だけど、海外の移住者が多く、日本の文化ってやつはなりを潜めています。ニセコに住んでいる日本人も、海外で生活していた人や国際結婚されている人が多かった。そんな感じで、とても独特な空気で国内外の空気がないまぜになったような感じです。

多分、いろんな人がいて面白かったんだと思います。バックパッカー、海外で修業する料理人、海外で生活していた人、海外からの移住者、国外で培ったものを国内に持ち寄っている集落みたいな感じでしょうか?とにかく多種多様で、皆さんの話を聞いてて興味が尽きませんでした。


そんなこんなで多種多様な人たちと接する中で感じていたのは、ストイックさ、ハングリーな精神。求道する意思、拓く力。フロンティアスピリッツ。

僕は茶を好きで、いつか自分の好きな茶を表現する場所を作りたいと思っていましたが、遠く及ばないと強く感じました。目指す資格すら今の僕にはないと直感しました。

自分を鍛えなければ。


そう思ってどうしたかというと、

Sヤンから台湾の話をたくさん聞いていたので、とりあえず台湾行ってみっました。台湾の烏龍茶好きだし、茶器や道具も欲しい。もしかしたら仕事も見つかるかもと思い、パスポートと名刺を作り、旅行に行ってみました。

はじめてひとりで行く国外に、アドレナリンどばどば。

駅の改札のシステムが分からないけど、どうしたら使えるのかそれを聞く言葉も分からない。すべての行動に困ったので、以降困っている海外の人がいたら手を差し伸べるようになりました。


それでとりあえず台北を回っていたのですが、茶屋があればとりあえず入って茶を飲み、購入。名刺を渡してあってるかわからない中国語で「働きたいのですが、仕事はありますか?」と営業し続けました。ほとんど全滅だし、今思えば茶の値段を吹っ掛けられて、何も疑わずお金を出して買っていました。日本に帰ってSヤンに金額を言ったらすごく怒られました。


そんな旅行中に、一つの茶屋が応えてくれました。少し日本語が喋れる人がいて、「なんだかよくわかんないけど、今作業してるから働いてみるか?」と言われました。言われるままに、裏に行ったらタイル張りの大きな部屋で、おじいさんが大量の紅茶を混ぜていました。「ドリンクスタンド用のスリランカの紅茶だ。手伝って。」と言われ、手伝いました。今まで触ったスリランカの紅茶のどれよりも芳醇な香りがしていて、でかい茶袋をひっくり返して混ぜて、詰めてを延々繰り返しました。

一日手伝って、「まだしばらく台湾にいるのか?」と聞かれ○日までいると答えると「山峡の茶農家に会いに行く予定だから一緒に行こう。」と誘ってもらいました。

その時初めて台湾の産地に行きました。茶畑にヤシの木が生えていて、いかにも南国の雰囲気のする場所でした。茶農家さんの家に行くとたくさんの竹ざるが棚にさしてあって、茶葉を萎凋(葉中の水分を揮発させ、萎れさせる工程。水分を減少させ、加工しやすくするのと、微弱な発酵で艶やかな香気を生成する大事な工程です)させていました。

ここ山峡は、台湾で唯一の緑茶を生産している産地で、その茶の名前は台湾碧螺春(たいわんへきらしゅん)と言います。実は台湾茶で一番好きな茶です。日本ではほぼ手に入りません。現地でも品質の良いものは入手困難な茶です。

この記事を書いていて、そういえば僕は最初に山峡にいったんだったと思いだしました。今まで、この茶だけ特別な感じがしていたのはそういうことだったのかと今とても納得しました。



初回の旅行はこんな感じで、当時の自分にとっては大冒険を終えた勇者のような気分になってました。大量のお土産を手にまた行こうと決めました。


二回目に行ったときに仕事を見つけました。

とりあえず前回お世話になった茶屋に行ったら、また働かされました。今度は焙煎。熱源のガスバーナーが火を噴く大きな火入れ機にひたすら茶葉を突っ込む。出てきた茶葉をまた投入口に入れ直す。それが終わったら、今度は店頭に立たされて、「注文が入ったら茶を詰めて。」と言われ、ひたすら茶を詰める。ここは日本の観光雑誌に必ず載るような店だから、来店はほぼ日本人の観光客。僕も観光客なのに同じ観光客に茶を売る。接客した観光客に事情を説明すると「???」という顔をされる。そりゃそうだ。


そして同じように、来客がほぼ日本人の、他のお店で日本語が話せるスタッフに会いました。その人はその店のオーナーの息子でした。オーナーは裕福な家で育った人で、日本の百貨店で働いていたらしかったです。その息子が「客がほとんど日本人だから、日本語が話せるスタッフが欲しかった。」と言うではないですか。僕、超お買い得ですけど、どうすか?と答えると、「オーナーが東京に家を借りていて、今度茶の教室をするから会ってみてください。」と。

そして、東京で茶の教室に参加し、オーナーに「働きたいっす。」と言い続け、オッケーを無理やりもらいました。千と千尋みたいな感じ。ちょうどあの映画も台湾モチーフだし。


とまぁこんな感じの流れで台湾で生活することになりました。そこからワーキングホリデーの申請をし、携帯はどうするのか?家は?など問題を抱えて右往左往しながらニセコで仕事をする。KダマさんやMシタさんに手伝ってもらいながら準備を進めていました。

台湾で働けるようになった店の名前は「SM」にしておきます。なんかいかがわしいお店みたいですがイニシャルがそうなので仕方ないか。。


SMとは、とてつもなく、馬が合いませんでした。

家は、オーナーの持ち家があるというので、そこを勧められました。場所や家の雰囲気を知りたくて質問したら「気に入らなければ他をあたってください」と冷たくあしらわれ(対応してくれた人はなんと日本人)手土産で持ってきた虎屋の羊羹と高かった日本酒はいつまでたっても店の片隅で放置。

紹介された家はひどく遠いところにあり、(僕はリトル九份と呼んでいました)一人で住むにはあまりにも広く寂しい家でした。窓が非常に多く、カーテンがない。となりの家の人は、外人が住み着いて不安なのか、僕が何をしていたのか逐一オーナーに報告していた。そのくせ家賃は高い方だった。搾取。自分でも家を探してみたけど、契約の細かいところが分からない。結局自分ではどうにもできないのであきらめました。

店の仕事の仕方も気にくわなかった。効率が悪い。とても。価値観が全く合わなかった。同じ日本人も働いていたのに、その人といちばん合わなかった。

一度、お客さんが一組しか来ない日があった。日本人の若いカップルだった。僕は特に仕事もなかったので、そばについて台湾のいいところとか茶の話をしていた。お客さんも異国で働く同じ国の人の話に関心を持ってくれていて凄く楽しそうだった。

40分も接客しただろうか。お客さんに少し話過ぎたことを謝罪し、ゆっくりしていってくださいと告げて、裏に戻ったら、めちゃくちゃ説教されました。何をしていたのかと。無駄なことに時間を使って、仕事はボランティアじゃないと強く言われました。納得できなかった。猛烈な怒りを覚えた。ちらりとその人のPCのディスプレイの端にLINEのウィンドウが目に入る。京都店のスタッフに愚痴のメッセージのやり取りが見えた。


他にもいろいろなことがありました。酷すぎました。

だから、10月に渡航して、SMは1月には辞めてしまいました。

グッバイ!


SM店の仕事はよくなかったですが、扱っている茶や提供システムは一流だったのでその辺に関しては大変勉強になりました。ありがとうございました。今でも参考にさせてもらってます。


SMを辞める前に、ほかにも仕事を探していた時に知り合った日本の方が部屋を貸してくれることになっていたので、家がなくなることは避けれました。しかし、仕事が見つからない。とりあえず求人があった製菓屋とバーを経営している店に転がり込むことができたが、ほとんど仕事はない。

そしてその時期は新年。1月から3月まではほとんど活動しない時期に仕事を辞めてしまったので、仕事が本当に見つからず、収入源もほぼない状況になってしまいました。

精神的にもボロボロで、少ない貯金を切り崩していく日々。だんだんと部屋からでなくなっていきました。


そんな日々での心の支えは、語学学校と中国茶教室でした。

台湾に来て、11月に入学しました。台湾師範大学というところです。

引っ越してきて、入学する予定はなかったのですが、生活しているうちに、もっとちゃんと勉強した方がいいと思ったのと、よい学校を知れたので通うことにしました。この時、人生で初めて自腹で学ぶためにお金を使いました。勉強は嫌いですが、自分で作ったお金で通ってみたら、ものすごい身になりました。意識ってすごいですね!


そこで僕は一番下の学習クラスでした。発音をひたすら繰り返したり、基礎的な文法を習っていました。今も当時も全然会話できませんが、発音だけはいいね!と言われるようになりました。


もちろんクラスも心の支えでもあったのですが、それよりも「Tea Club」でした。大学のサークルのような集まりで、たまたま学校の張り紙で見つけました。木曜日の夕方、名簿などはなく、ただその時間に来たい人だけ来る。一応顧問みたいな人がいました(以降、老師。先生のことを中国語で老師と言います)が、茶に対しての知識は薄く、お菓子を食べながらだべっているような感じでした。

部長と呼ばれるロシア人の茶好きがいて、僕が初めて来たとき、僕お茶好きで台湾に来たよ。お茶淹れたりしてたよ。と自己紹介すると、「これ淹れてみろ。」とまさかの腕試し。当時は中国茶のイロハを分かっておらず、蓋碗で淹れたところ全然美味しく淹れれませんでした。

人の前で淹れるのって慣れてないと、それだけでハードルが高く、平常心で居るのは難しいんです実は。緊張してたのと慣れてないのでダメダメでした。部長に鼻で笑われ「まだまだだな。」みたいな感じで肩をたたかれました。それがもう悔しくて悔しくて。


次週、僕が普段淹れてる茶や道具など、しこたま持ってきて、あの悔しさを取り返そうと気合十分に向かいましたが、部長は来ませんでした。部長来ないねと僕が言うと、老師が「部長が来ない日は、茶を淹れる人がいなくて困っていたけど、これからはその心配はしなくていいみたいだね。」みたいなことを言いました。

それからは、僕が Tea Clubのお茶淹れ係。毎週いろんな茶をもってきては頑張って中国語や英語、身振り手振り、時には絵をかいて一生懸命説明した。


これが楽しかった。本当に救われた。

だんだんと、Clubに来る人も増え、みんな話を一生懸命聞いてくれた。老師はClubに茶の仕事をしている知人を連れてきてくれたり、知人の茶屋にみんなを連れてってくれるようになった。

これはどんな茶だ?どんなところの茶だ?ヤンタイ(僕の名前の洋太の中国語読み)は茶がホント好きだなーとか、どうやって淹れるのかとか、いろんな話をするようになった。

この時僕は、茶はコミュニケーションツールなんだ。と気づきました。

ここで飲む茶は、決して質のいい茶ではないけど、自宅で一人で飲む高級茶に比べるまでもなくTea Clubのみんなで集まって飲んだ茶の方が美味しかった。楽しかった。みんなで飲むから美味しいんだ。

それもそうだ。だって茶の人たちは、自分のお気に入りの茶を開けるとき、まるでいいワインを開けるときみたいに、にやにやしながら持ってくる。いいのがあるからみんなで飲もうぜって、仲間内で、身内で、楽しんでいる。


これ以降、僕は長い時間をかけて、だんだんと、希少な物や、本物や正統なもの。ものすごくおいしいと言われる茶にそんなに興味がなくなりました。もちろん、一流を知らなきゃ質を鑑定できないので、その意味での研鑽は絶えず続けています。

しかし僕が人に出すものは、「確かにおいしいくて質がよく、リーズナブルな物」になっていきました。だって、「これ一級品っすよ」みたいな触れ込みを聞いて飲んだら自然体じゃなくなる。自然体で、いつも通りの状態で、楽しいひと時を構成するささやかな物でなきゃ。だって、楽しい時に飲む茶はそれだけでとびきり美味しいんですから。


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お茶淹れ係りの僕。

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茶を淹れる僕と右の白髪の女性が老師。



そんな素晴らしい経験と並行して、僕は台湾在住の日本人の茶の先生「一以庵」の本藤先生に中国茶の基礎中の基礎を指導していただいてました。

合理的に、過不足なく、簡潔に常用に楽しめる精神を学ばせていただきました。SMは芸術家肌の体系で、どうにも合わず、なんか嫌だなーと思っていたので、本藤先生に出会えて本当に良かった。

中国茶芸の資格を取得するコースではありましたが、僕の滞在中に取得は難しかろうということで、先生に指導していただくに留まりました。


しかし、本当の基礎をプロにご指導ご教授いただけたので、本当に今の礎になっています。茶の道に入って3年目でようやく、先生と呼べる人に出会えました。また海外に行けるようになったら会いたい。

観光で行っても予約すれば台湾茶を淹れる体験をしてくださるので楽しいですよ。



そんなこんなで、台湾で生活していましたが、やはり貯金がない。金がないのは本当にまずいですね。


茶に関する壮大な経験はできたものの、生活が成り立たない。用事があるとき以外は家に引きこもって食費を節約。茶だけは山ほどあるので飯をたべず茶を飲み続ける日々。無職で引きこもる2月。

生活できていないんだから日本に帰るしかないじゃないか。しかし、1年たたずに帰るなんて、かっこ悪いじゃないか。と意地を張り続けていました。ただただ意地を張るだけの日々の中、唐突に、日本に帰って茶産地で働いた方がよくない?言葉分かるし、そっちの方がよくない?と。自分の中で都合よく言い訳がたった時、ふと思いました。


そういえば、僕は一人だけ生産者さんを知っているぞ。。その人が作る茶は僕の大好きなお茶の一つで、しかも一緒に酒を飲んだことがあるぞ?!

と、ピーーンときました。


その方が、宮崎県と熊本県の県境、深い山の中の中に鎮座する九州島の中心の場所で最高の茶を作り続ける五ヶ瀬町の興梠洋一先生だった。

いつも、僕なんかがこんなこと言っていいのだろうか、と思いながら口にするのですが僕の茶のお師匠様です。

ル○シアの創始者(会長)に師匠は気に入られていて、冬のニセコには毎年招待されているそうなのですが、ちょうど師匠が来たとき、会長に「おい川村。お前は茶が大好きだったな。興梠さんが今年の一番いい茶を持ってきてくれた。美味しく淹れなさい。」と、とんでもない無茶ぶりをされたことがありました。


この時はやばかった。それはもうやばかった。


茶を作った人と、会社を作った人にお茶を淹れなさいって、こんな大変な状況はそうそうない。そんな中で、淹れた茶を師匠は一口飲んで「うまい!!」と大きな声で言いい放ちました。


本当のことは分かりません、実際おいしかったのか、師匠はあのとき酔っていたような。。会長は首をかしげていたし。分かりません。

のちに師匠に聞いたことがあります。あの時、本当に美味しく淹れられてましたか?と、うまいうまくないの返答はなかったですが、「俺の釜炒り茶を高い温度で淹れたのは、ル○シアではおまえが初めてだった。」と言ってました。とにかく嬉しかったのだそうです。


わすれられない事件でした。

そんなことがあったので、師匠は僕のことを覚えてくれていました。Facebookのメッセージで働かせえてくださいと連絡させていただいて、

「覚えてるよ、おまえのこと。うちの仕事はきついけど、ついてこれるならいいよ。」とお返事が。この連絡を機に、帰国を決定。

色々な事後処理を済ませ、3月の中頃、僕は日本に帰ってきました。


たった5ヶ月ちょっとの生活でしたが、本当に大変な思いをしたとくちゃくちゃになりながら帰ってきました。しかし、何かに挑戦すれば、失敗か成功のどちらかが手に入る。挑戦しなかったらどちらも手に入らない。挑戦したおかげで、僕は沢山の失敗とほんのちょっとの成功を手に入れた。


この経験はいつか自分の財産になる。

そう確信して、僕は、今度は宮崎行きの飛行機に乗り込みました。



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