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12.9 wed いいね、で、だから何なんだ

 久しぶりに友達に会った。久しぶりと言っても二週間とかそこらなんだけど、大学を卒業したての頃に比べるとなかなか人に会わなくなった。すぐ寝るし、人に声をかける気力がなくなりがちだ。
 気を許せる人の顔を見ただけでシューっと安心してしまうもので、それだけでいい日になったなあとポカンとする。あてのないドライブを一緒に楽しめる人がいて嬉しい。
 二人の友達に別々に会って、二人ともとツイッターがいよいよ苦しいという話をした。私は最近ほぼツイッターをやめたようなもんで、身の回りにもそういう人がちらほらいる。ツイッターのタイムラインにも「ツイッター苦しい」みたいな発言が流れてくるし、やー、ですよね、なんでこうなっちゃったんすかねーと思うばかり。ネットの匿名性がなくなったからかな。

 友達と車に乗りながら、キンモクセイの『二人のアカボシ』を聴いた。かっこいいなあ。



 仕事でインスタグラムを使っている。ポートフォリオ的なアカウントと日記帳的なアカウントの二つ。週2回くらい更新していて、別にそこまで苦でもないが、すごくやりがいがあるわけでもない。
 投稿の成果は仕事に直結するわけではなくて、本当に目で見て測れるのはフォロワー数といいね数だけだ。半年近く続けていて、どちらも安定して増えているけど、だから何ですか!?と思わなくもない。どっちの数字も、コンテンツの内容より営業のかけ方で大きく変わるからだ。フォローをかけるとか、人気のタグに乗っかるとか、それができれば、ある程度インスタグラマーぽい何かにはなれる。ただ、それが何の営業なのかは本当によく分からない。とりあえず時代だからとSNS広報をしている人も多いと思うけど、私みたいに「だから何だ?」な人、結構いるんじゃないか。どうですか。

 映え文化、バズり文化そのものは嫌いではない。だけど、それはあくまで一部の話であってほしいと思っている。SNSユーザーはあくまで一部である、そういう前提でいたいけど、そうもいかない。
 SNSでマーケティングできなきゃ死ぬ的な言説はどんどん当たり前になって、数を稼げるコンテンツが主流になって、気づけばSNSはすっかや商売の場になった。売る方も買う方も、タグが使えなければそもそもいることすら認識されない。世知辛くないか。そうも言ってられないっすかね。

 世知辛いというか、クリエイティブじゃないなあと思う。「流行りに迎合できれば稼げる」な考え方が普通にうたわれるようになって、それってでかい声で言っていいのか?と不安になる。信念が流行りを生み出していてほしいと思うのは子供なんだろうか。

 そんな感じで虚しいままインスタグラマーを続けるのも嫌なので、仕事のことを絵日記にして描くようになった。身の回りの人を堂々と描けるし、仕事のことを他の人に知ってもらえるなら嬉しい。バズらないし職場のためになっているのかは分からないけど、今やっている分には楽しい。いつかこのはたらきに色がついたら嬉しいです。

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