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文化財について

わが国には、非常に多くの文化財が残されている。
文化財とは何か。これについて検索をかけると、文化庁のサイトが引っかかって説明してくれているが、どうも芯を食っていない感じがする。というか、「そもそも文化財とは?」というところについて何ら語っていない。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/

代わりに、私の解釈を披見しよう。

過去の人間活動によって生み出された、絵画、書跡、工芸、建築、古記録などの有形物や、過去の人間活動の記憶をとどめている言語・祭祀・舞踊・技術・生活様式などの無形物のうち、現在でも残されており、かつ特に希少なもの。

こうしたもののうち、有形のものは一般的には「美術品」「工芸品」などと呼ばれ、無形のものは「伝統」「文化」などと呼ばれるが、われわれ文化財行政の分野では「文化財」と呼ぶ(トートロジックになってしまった)。

というわけで、ごく平たく述べるとすれば「文化的な価値を持つとされる有形・無形の財産」ということになるだろう。実際、一般に向けるとき、私はこの語句をこのように説明している。
しかしよくよく考えると、わかったようでわからない。何をもって文化的とするのだろうか。何をもって価値があるとするのだろうか。何をもって財産とするのだろうか。上記の私の説明は、実はこうした部分を全てすっ飛ばしてしまっており、聞き手の想像力に委ねるところが大きい。しかし、逐語的な説明になっているため、聞き手は何となくそれぞれ脳内補完して、納得してしまう。

こうした未整理の部分は、実は業界でコンセンサスが取れているわけではない。もちろん、「言葉」とは元来そのようなものだ。どんなに精密を期しても、それが何を指し示すかは一定しないのが言葉の性質である。
ただし、文化的とは何か?価値とは何か?それらについては、議論それ自体がほとんど習熟していないことは確かだ。それは、文化庁が説明を避けているという事実からも垣間見えることであろう。

ちなみに、ここに言語を入れたのは、少々一般的な解釈とは異なるかもしれない。しかし、言語こそはその土地で育まれた人々の思考や文化、あるいはそれらの相互的な関係をもっとも長く保存するものだ。最近私は某動画投稿サイトなどを通し、言語を辿ることで、歴史学にこれまでと違った光を当てることができることを知った。たとえば、上代日本語(奈良時代の関西方言)や、日琉祖語(日本語と琉球語の祖となる、弥生時代の言葉)の音韻を知ることで、『古事記』や『日本書紀』などをより実証的な方法でひもときなおすこともできるらしい。
しかしこうした「言葉の考古学」とでも言うべき、非常に重要かつ心躍る知の探求には、もはや中央では失われてしまった、なるべく古い言語の記憶が欠かせないらしい。現代では、日本語の標準化によって、そうしたかけがえのない記憶はとてつもない速さで失われている。私はこれを損失と考えるし、国として保全すべきと考える。

ちなみに、文化庁のサイトでも、一応言語・方言に対する保護の必要性とその関連事業がまとめられている。しかし、「分布図」の大雑把さに見て取れるように、とても真面目に考えられているようには思われない。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/index.html

ともかく、ここまでが、私の思う「What is 文化財」だ。

では、上に挙げた問題のうち、どこまでを「文化的」に「価値がある」とするのかという点について私見を述べる。
まず文化とはなんだろう。わが国には、「文化的な最低限度の生活」なる奇天烈な言葉がある。どうやら文化なるものには、度合い、あるいは貴賤があるらしい。この文言は、箸を使ってお米を食べることを文化的、手を使って生肉をむしり食べるのが非文化的と言いたいのだろう。
しかし、たとえば縄文時代の石鏃(やじり)に対し「これは失われた人間の生活のありさまを伝える文化財だ」と述べたとして、疑問を呈する人はいないだろう。「こんな野蛮な食事の痕跡は、文化的な営みじゃないから文化財とは言えない」、とはならない。

これはおそらく、米国人の草案になる憲法に含まれる英語culturedを直訳したもののように思われるが、事実誤認であろうか。
日本語なら、文明的といったほうがまだしも理解できる。

第二十五条すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
Article 25.All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

繰り返しになるが、たとえば私にとっては「手で肉を食うのが彼らの文化だ」というのは、極めて自然な文章に思われる。言い換えれば、「風土に根ざした、その共同体に固有の暮らし方」というところであろうか。多くの日本人にとっても、この解釈が自然であると信じている。

つまり、全ての人間の行いは、文明のレベルに関わらず尊い。それを行う人の人種や性別にも関わらない。文化に貴賎はない。それは私の考えであり、また少なくともわれわれ日本人にとってはごく自然な感覚である。西洋においても、例えばレヴィ=ストロース(1908-2009)はこうした考えに至り、「先進国から見ていかに未開と思われるような文化でも、実は等しく複雑で合理的である」と述べている。これを構造主義という。筆者の理解である。

話を戻そう。
ここまでを踏まえて私が何を言いたいかと言えば、「すべての造形物が潜在的にもつ文化的な価値に優劣はない」ということだ。それは、文明の発展度合いとは無関係のはずだ。縄文人が獣をとらえるために使っていた石鏃と、西洋の王侯貴族が身につけていた美しいジュエリーとでは、なんら文化的な優劣はない。どちらも希少なため比較しづらいとすれば、これら二つに、今日私が使った箸を加えてもいい。
これらはどれも等しく「文化的」な「価値をもつ」。これらすべての「もの」を保存しておくことができれば、それが理想的であるような気がする。

しかし残念ながら、そうした主張は何の役にも立たない。その意味は明白で、人が作ったすべての「もの」を残しておくことは全く現実的ではないからだ。だから結局のところ、造形物に優劣、ないしは優先順位をつけて守っていくしかない。

こういう理由で、私は「特に希少なもの」という文言を加えざるを得なかった。

さて、文化財という語を構成するもう一つの要素、「財」はどうだろうか。まずこれは、財産と読み換えて問題ないだろう。では、財産という語を検索してみよう。
デジタル大辞泉に曰く、

3 あるものにとって、価値あるもの。金銭的価値にも精神的価値にもいう。「健康が私の財産です」「自然は人類共有の財産だ」

だそうだ。
なお、同じくネット上に転がっている精選版 日本国語大辞典の説明によると、財産という語は中世に用いられていたものの、江戸時代に廃れ、近代になって翻訳語として再登場したものという。財産という言葉からは、翻訳語特有の香りがプンプン漂ってくる。

ともかく、「文化」という語にこの「財産」という語がくっつくと厄介だ。

一つ目の理由が、文化に優劣をつけかねないということ。
国としては現在、とくに貴重な美術工芸品や歴史資料に対し「重要文化財」や「国宝」という価値づけをおこなっている。それらに指定された文化財を、すなわち「指定文化財」という。国から文化財として指定されているものがあれば、そうでないものがある。これは、指定されていないものの価値を貶めることにもなりかねない。「財」という語が、余計にその感を強めている。

実際、この業界にいれば、指定文化財と同じかそれ以上に貴重なあるいは技法的に優れた文化財なのにも関わらず、なぜか指定から漏れてしまっているものにも多く出くわす。そうしたものは、現実問題、一般の人から見れば「本当に価値がないように見えてしまう」
(ここはあえて実感としての「出来の優劣」を論じることを許されたいが、私のちっぽけな主観に過ぎないことを申し添えておく)

そして二つ目の理由が、文化財が、そのほかの財産と同じように、運用して金を生む財と見られかねないということ。
財産となれば、ふつう人は、それが財政にとって有効に働くことを望む。運用して増やしたり、損切りをしたりして、金銭的な尺度で最大化することを望むだろう。

しかし、文化財は決してそうではない。また改めて述べようと思うが、わが国はその歴史の中で、極めて複雑かつ洗練された文化を育み、しかもそれを伝える文化財が、他国ではあり得ない程よく残っている。これはそれだけで誇らしいものであるはずだ。敗戦で根こそぎ奪われたわが国の誇りを、それでも支えてくれるものだ。
文化財は、あるだけでいい。あり続けることが肝要なのだ。それがあることが、文化が存在した唯一の証たりえる。もし文化財が一斉になくなって仕舞えば、初めは二次資料(例えば歴史の教科書)によって、歴史や文化を語り継ぐことは可能かもしれない。しかし、次第にそこには根も葉もない捏造が混じり、本当の歴史さえも疑わしくなって、何らの歴史も持たない国になってしまうだろう。

まさかそんなことは、、と思うが、これから本格的に国が苦しくなった時に、文化財を売却して外貨を稼ぐようなことがあってはならない。そう考えると、やはり文化財という語は見直すべきだと強く感じる。

駄文を連ねてしまったので、そろそろまとめに入りたい。
繰り返しになるが、すべての文化財を守ることは不可能だ。では、何を守れば良いのか?
現時点での私の結論は、「より多彩な人間活動を復元できるよう、文化財を守っていく」だ。
これによれば、やはり史料の貴重な古い時代の文化財は、いくらつまらなくても保護しなければならない。すでに大部分が失われているからだ。一方、新しい時代、たとえば平成の人々の生活様式を表すような身の回りの製品などは、ごく少数のサンプルを守ることになるだろう。多くの映像や音声、文章が記録されている平成の暮らしは、後から再構築することが比較的容易に思われる。
当然、そこから抜け落ちる無数の営みがある。残念ながら、すべてを残すことは不可能だ。だからこそ、どのような理念に基づくべきか、議論を成熟させることが重要ではなかろうか。

文化財行政に正解はない。何をどこまで守るべきか。その問いにも、もちろん正解はない。
しかし、何を守っていくべきか十分な議論が重ねられていない現状は、とにかく嘆かわしい。その議論が活発化すれば、おのずと「文化財」という言葉のパラドックスが注目され、変更される/されないに関わらず、理解が進むだろう。まずは業界だ。業界が放蕩三昧で、社会の理解など得られるわけがない。

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