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宗教 神話 科学 ④

僕たちはどうして生きているの?

僕たちは、死んだらどうなるの?

科学では答えることのできないこうした疑問に苛まれる信者に対し、宗教が設ける「神」。

「そんなことに悩まなくてもいいんだよ。この神様に手を合わせてごらん。君の悩みを消し去って、安楽に導いてくださるから。」

神は、信者たちのぽっかり空いた疑問の、恐怖の空間に、安心を埋めていこうとする。ただ、信者にとっても、信じ続けるのは楽じゃないんだ。それはとっても難しいこと。

この世界はアルマジロに乗っかっているというのは、本当だろうか?最後の審判の日、神が天国へ導いてくださるというのは、本当だろうか?そういうことに対して、疑問を持つ人は、きっと少なくないよね。いや、普通なら疑問を持つのが当たり前だよ。

敬虔な信徒こそ、信仰に思い悩むんだって、聞いたことがある。きっと信仰っていうは、怠惰からくる思考停止なんかじゃない。疑念を抱きながらも、それでも自分が救われるために、神を信じようとする。そんな葛藤にこそ、信仰の本質が宿っているような気がするんだ。

宗教が、人間集団の発展によって神話を納得できなくなった人たちのために説かれるものだとすれば、それは科学の双子と言えるかもしれないね。あるいは、両の輪のようなものかもしれないね。

科学は、わずかな部分かもしれないが、世界の暗闇に光を照らす。そうやってさっきよりも少し開けた世界は、初めは眩しく輝いて見えるだろう。でも徐々に、暗闇がもっと深く広大なものだということを、否応無しに教えるんだ。

現代では、僕たちはあまりに宗教の存在をないがしろにしているように思うんだ。宗教的なものを見聞きすると、アレルギー反応を起こす人がいるし、逆に、宗教的な話題をタブーであるかのように感じてしまう。君は、友達が宗教について語り出したら、耳を傾け続けることができるかな?

科学をのみ、盲目的に信奉するのが、僕たちが置かれた世界の現状と言えるだろうね。ただ、仮に宗教に発展が科学の発展と軌を一にして進行してきたものであるとすれば。それらは、お互いの欠点を、お互いの影になる部分を、補い合いながら育ってきたんだろう。

宗教が欠如した状態で、ぶくぶくと太った科学のみを相手にして、そして扱いきることが、僕たちにできるだろうか?宗教が忘れられたこの世界を、僕は、危うく感じるんだ。

霊鷲山山頂(Vulture Peak) インド、ビハール州、ラージャグリハ

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