今疲れているのって、不安定なことに対してではなく、安定を求めすぎているからじゃないの?
なんだか自分が疲れているなーって感じたので、なぜ疲れているのか考えてみました。
考えた結果、この狭い家の中だけでも、私は頑張ろうとしていたことに気付きました。
その頑張っていたことを、ここで1つずつ述べます。
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・仕事の中での人間関係を保とうとした。
具体的には、在宅中に来る仕事関係のメールやラインへの返信の仕方をめちゃくちゃ考えて、慎重になって返信をした。
・これから先、経済的な安定を保っていく方法を考えた。
「在宅で稼いでいくには何したら良いんだろう」とか。
・家族関係を保っていく方法を考えた。
「離れて暮らしている今、このまま家から出ることなく、実家にも戻ることが出来なくなれば、これから先の家族との関係はどうなるのだろう。」とか考えた。
・運動の時間を取り入れた。
運動量の安定を求めて、毎日決まった歩数歩くことにした。
・noteで、安定してスキを貰えるような記事を書いた。
・料理を毎食分作った。
作り置きを頑張って作って、毎食同じように栄養が取れるように、考えて食事を摂った。
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これらが、自粛中、私が頑張ったこと。
そして、頑張った結果、疲れました。
それで、これらに共通していることって、全部、安定を求めた行動であることが分かりました。
もちろんこれ以外にも取り組んでいたことはありますよ。
趣味にしたいものを、奮発して購入したとか。
でもその行動に対しては、疲れなどは感じていませんし、むしろ、買うものを吟味したり調べたりしている時間は、楽しかったです。
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だから、私はもっと、この自粛中、大胆になりたいと思いました。
不安定さを見て見ぬ振りをして、誤った間違いを犯してしまうのはもちろんいけないこと。
でも、それで、不安定さを安定に変えようと思っても、無理なことなようにも思うんです。
例えば、安定した食生活に戻すため、ファスティングを何日間かしよう!とか。
不安定なものは不安定です。
我慢することと安定を求めることは、イコールではないのでは?
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今の現実を直視すると、すぐさま安定した生活へと走りたくなる。けど、
安定ではなく、妄想とか完全なる現実逃避も悪くないかなって思い始めました。
我慢することを認めてあげて、その中で、自分の思考が幸せになる妄想で埋め尽くしてあげれば良いんじゃないかな?
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