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アメリカ在住の日本人は村本大輔をどう見るか?

今年の夏に面白い出来事があった。サンフランシスコから一時帰国した友人に一年ぶりに再会し、そこで彼女の口から出た言葉が「YouTubeで日本のコメディアンを見つけたの。とても面白くて、日本人らしくない漫才をやる人なんだ。ダイスケ・ムラモトというんだよ」

そう。彼の名前は村本大輔。友人によれば、カリフォルニアに暮らす日本人が母国ニッポンの情報を得る手段は今はもっぱらYouTubeで、村本さんが「The Manzai」で披露した政治風刺を込めた漫才の動画は、現地の日本人の間で何度も再生されて、話題になっているという。

「良い意味で日本人らしくない。日本にも新しい時代が来たんだね」と友人は言った。

そこから私たちは横浜のファミレスで村本談義に興じることになった。渡米を目指す村本さんが、まさかすでに海を越えていたなんて!

アメリカではスタンダップ・コメディは大人が見る知的な娯楽だ。トランプ大統領になってから社会が混乱し、デモやヘイトが増え、国民はますますコメディを必要とするようになった。コメディは物事を真っ向からではなく、斜に構えて見せることで、この社会のゆがみを客観視する方法を教えてくれる。

村本さんがアメリカで成功するにはどうしたらいいか?

ご本人にとっては大きなお世話だろうけれど、とにかく私たちは盛り上がった。彼がアメリカでやって受けそうなネタはなんだろう? 村本ファンの私にとって、目の前の友人ほどこの話題をするのに適した人物はいなかった。

彼女は在米20年。アメリカ人の旦那様は日本語を話せず、日常会話はもっぱら英語。本人いわく「アメリカが長くても、私は日本人らしさを失っていない」そうだけど、私の目から見て、彼女の感覚はもはやアメリカ人のそれに近い。物事の感じ方や社会の見方が、言い換えれば日本的ではないのだ。海外に長く暮らしていると、どうしても母国の文化のことを常に大きな視点で捉える習慣がつく。私たちが海外に行くと、現地の人から「サムライ」や「天皇」の話をカジュアルに振られたりするように、日本人でも海外が長いと、そのような視点を徐々に獲得していく。

カリフォルニアに暮らすおじいさん、おばあさんがカフェで明治維新の話をまるで昨日のことのように真剣に語っているのを見かけた時は、なるほどと思った。いくらお年寄りでも、さすがに明治維新の頃には生まれてなかっただろうに(笑)教科書に載る歴史でさえも身近に感じるようになるわけだ。といっても今流行の歴史修正主義のことではないよ(笑)

村本大輔はニッポンのマジョリティー?

すでにメンタリティの半分がアメリカ人になっている友人が指摘するところによれば、村本さんはいざニューヨークでステージに立ったなら、アメリカ人のお客さんから見て「マジョリティーの日本人」として映るのだという。つまり平均的な日本人の代表ということ。

村本さんは、日本では自分のことをマイノリティーと言い、ファンのことを「隠れキリシタン」と呼んでいるくらいだから、マジョリティとは笑ってしまうけれど、彼がそうである理由は驚くほどざっくりしたものだった。

①男性であること ②韓国籍やその他の移民的立場ではなく、生まれつき日本国籍を所有していること ③障碍者ではなく健常者であること ④異性愛者であること ⑤日本国内において経済的にある程度は裕福で、さらに知名度もあること

「こんなことだけでマジョリティに決めてしまっていいの?」と私は驚いたけれど、これが単純にして最低条件なのだそう。思い返せば、私もアメリカに暮らしていた頃、ヴィザの更新の際に似たようなことを問われたことがある(アメリカ大使館からではなく、在籍していた大学から)それはつまり私が母国でどのくらいマジョリティかを測られていたのだろう。

つまりこのカテゴリーで行くと、村本さんはニッポンの代表者であるガイジンであり、もっと言うならアメリカに来たお客さんだ。この「ガイジン性」を最大限に生かしてネタをつくり、アメリカ人が知らないニッポンを教えてやるようなネタを披露するのが良いのではと、友人は提案する。

例えば、沖縄のネタをやったらどうか。「ニッポンにはOkinawaと呼ばれる南の島があって、そこにはU. S. military base(米軍基地)があるんです」と紹介から入るネタをステージでやったとしたら、日本という遠い国の話でありながら、自分の国の軍隊の話でもあるし、しかも南の島というハワイやグアムを連想させるイメージが、アメリカ人のお客さんの関心を惹くだろうと。

フクシマの原発ネタもおおいに興味を持たれるだろう。チェルノブイリやスリーマイルとフクシマを比較しながらの原発ネタは、知的な笑いに飢えているアメリカのお客さんの心を掴むだろう。そう友人は提案した。

それじゃあ黒人差別やアジア人への差別をネタにしたら?

私は質問した。彼女は左右に首を振る。「それは本当のマイノリティじゃないと、やることが許されないネタだよ

許されないネタ?

それは、ガイジンが人種問題を語れるのかという厳しい答えだった。例えば中国系移民は生まれた時からアメリカで差別を受けて育っていて、差別が辛いからと中国に行ったところで、中国人になれるわけではない。つまり彼らは逃げ帰る場所がない。差別されても耐えるしかないし、その生い立ちを受け入れて選択肢なく生きてきた有色人種の移民たちからすれば、いつでも逃げ帰れる国を持っている村本さんに差別を語ってほしくないと、思うかもしれない。

これには私も唸った。じつは私はこれまで何度もアメリカで差別反対の発言をしたり、反差別のデモに参加したことがある。誰も私をガイジンだと批判しなかったし、むしろいつもウェルカムだった。しかしコメディのステージに立つということは、一般人の営みとは異なる領域に上がるということなのだろう。文学やアートのように、自分の表現することが、個人を越えた普遍性に直結することを意味してしまうのだろう。

移民が語る祖国のネタもリスクが高い

今まで気づかなかったが、友人はじつはかなりのコメディ・ウォッチャーであることが分かった。

彼女が最近、不快に感じたというネタの話題になった。インド系移民のコメディアンが、アメリカのインディアン・コミュニティに暮らすインド系アメリカ人の祖父母世代についてユーモアにしたものだという。(これだけですでにマニアックな匂いがする)

僕のお婆ちゃんはアメリカに40年も暮らしているのに、いまだに英語が話せなくてパンジャーブ語で喋るんだ。インドの伝統を硬く守っていて、クリスマスだというのに、僕にインドの伝統行事のあんなこと、こんなことをやるように仕向けてくるんだ…

とまあ、要約すればこのような内容で、私はとても面白そうだなと思ったけれど、友人の視点によれば、異文化の、特に非西洋圏の原始性primitiveness)が揶揄されているようで、聞いていて楽しくなかったそうだ。このコメディアンのお婆ちゃんが守っているのは40年前のインドの文化であり、現在のインドのそれとは違うはずだ。なのにこのネタを聞いたアメリカ人は、インドが昔も今もちょっと遅れていて滑稽な国だとイメージするだろう。そしてこの手法のネタは、ともすれば日本のイメージにも繋がってくるはずだと友人は指摘する。明治維新を昨日のことのように語る滑稽なニッポン人。非西洋圏の異文化のprimitivenessをネタにすることは、コメディアン自身が考えているよりも広く影響する可能性があることを分かってほしいと。

ゆりやんレトリィバァが教えてくれたもの

最後に、友人は日本でも話題になった、ゆりやんレトリィバァさんが「America's Got Talent」のオーディション番組で披露したダンスについても語ってくれた。

「自分のことのように恥ずかしかった。日本人として肩身の狭い思いをした」と落胆を滲ませながらきっぱりと言い切った彼女の意見に、私はアメリカでの彼女の生き方を垣間見た気がした。

「身も蓋もないことを言えば、アメリカに暮らす私たち日本人は、日本人だという理由で周りからバカにされないように、日頃から品行方正を心がけて生きています。それが、ゆりやんさんのような人が突然アメリカに来て、あんな下品なことをやらかしてくれると、まるで私たちまでぶち壊されたように感じて、正直、見ているのも辛かった。日本では知的でレベルの高いネタをやっている彼女が、アメリカに来るとなぜあんなふうに道化になってしまうのか残念です」

これを読んでくださっている読者の方には、彼女のこの意見に賛否両論あるだろうと思う。私の中にも「そこまで言うか?」という気持ちと「でも、私は現地の人たちの日頃の苦労を知らないから、何も言えないのかな?」という想いが混在している。

友人がアメリカに居ながらにして、ゆりやんさんの日頃の日本でのネタを知っていることにも驚いたけれど、品行方正という言葉には、私ももう少し見倣うべきかもと反省した。

それはともかく、ゆりやんさんのあのダンスは、友人に限らず現地のアメリカ人視聴者の間でも賛否が広がっていたそうだ。否定する主な声としては、女、有色人種、肥満といういわば「三重の偏見」に対して笑う行為は不謹慎ではないかといったものであり、一方、賞賛の意見は、そのような「三重の偏見」を逆手に取ってユーモアに変える彼女の強さを見た、というものだった。

私はこの賛否の意見に今のアメリカ社会の風潮が見えるように思う。

アメリカでは少し前から、といっても、かれこれ20年ほど前からだが、肥満の人間を笑うことが「よろしくないこと」だというモラルが広まり、徐々に浸透している。他人の体形をバカにすることは、肌の色や体の障碍をバカにすることにも広くは繋がる行為であるという考えだ。太った女性を、さらには白人ではない女性の体形を笑うことを許さない人々が、アメリカには一定数存在するのだ。

村本さんは、政治について触れることを避ける日本のお笑い界とは違って、アメリカのコメディは自由度が高いと考えているけれど(確かにそうした自由で寛容なところは多いけれど)私はアメリカ社会に日本よりも窮屈な側面があったことを、ゆりやんさんのダンスを見て思い出すことができた。

それは多文化社会特有のモラルと言うのだろうか。これは「口に出すべきではない」とか、もっと言うなら「心の中で思ってもいけない」といった事柄が多く存在するし、さらには「聞く価値のある話しか聞きたくない」と思う人々のなんと多いことか! 「世の中に対して何かを訴えるようなメッセージ性のあるコメディをやらなければ、何のためにステージに登ってくるのか分からない」と考える観客が意外と多いのだ。物事には必ず目標がなくてはならないと考えるこれら一定数の観客にとってみれば、日本のお笑いのように、ただ純粋にお腹を抱えて笑うだけのネタの面白さを理解することはないのだろう。

これからも応援しています

村本さんの話題のおかげで、私と友人は夏の良い半日を過ごすことができた。村本さんが近い将来アメリカでつくるだろうネタについてあれこれ夢想することは、私たちに世界について考えるきっかけを与えてくれた。

村本さんがこれからアメリカで経験するステージが、私のこれまでの経験とどう異なるものになるのか、あるいはまったく新しい時代へと塗り替えていくのか、楽しみで仕方ない。

私と友人は日本とアメリカに離れて暮らしていても、村本さんのことを語ることで、互いに今の時代と世界を生きているのだなと実感した。

友情を育む村本談義だった。

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