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文学金魚のセミナーに行ってきました――セミナーのその後を追加しました!

2016年6月18日。土曜の午後は初夏の暑さを感じさせる空でした。会場は目黒区の閑静な住宅街にあり、高層ビルの一角に入ったいわゆるカルチャーセンターのセミナーとは違い、静かで落ち着いた雰囲気の中で行われました。

私はこのセミナーに参加するのを心待ちにしていました。「文学金魚」というユニークなネーミングのこのネット文芸誌のことを以前から気に入っていたからです。紙媒体の文芸誌や文芸雑誌のように毎月の刊行日にあわせて書店に足を運ぶ手間もないし、ネットゆえに配信頻度も高く、手の中のスマホで多様な作品を読めるというのは手軽です。これまで文芸誌といえば私の中で「お硬い」イメージがありましたが、文学金魚のおかげで文芸というものがぐっと身近に感じられるようになったことも事実です。

セミナーのテーマは「ジャンルの越境」つまり、文学ジャンル(エンタメ、SF,純文学、ラノベ、歴史小説など)のcross overという意味です。登壇作家は三浦俊彦さん、遠藤徹さん、仙田学さん、西紀貫之さん、山田隆道さん。それぞれ異なる文学ジャンルで活躍されている方々です。純文学小説をほとんど読まないと仰るラノベ作家の西紀さんと、一冊の本が人生を変えるような影響があるのが文学だと語る純文学作家の仙田さんが、意気投合して対談される姿が新鮮でした。また、あらすじは立てずに最初の一行を書いてから次の流れを楽しんで書き進めるという遠藤さんが、編集者の要請により梗概を詰めてから執筆するスタイルに変えたと話されたのに対して、三浦さんは自身の書くポリシーを貫くために、過去に編集者と言い合いになることも多かったというエピソードを紹介されました。最後に登壇された山田さんは、自身も小説家でありながら、あえて編集や営業の目線で文学を捉えなおしてみるという実戦的なアプローチを披露してくださいました。 

それぞれ文学に対する考え方やスタンスの異なる先生方が、対談では共鳴する部分が多いことに驚かされました。これまで私は、文学のジャンルとは互いに相容れないほど確固たるものだと思ってきました。例えば、「群像」と「オール讀物」が異なるように、また、同じ純文学系とされながらも「文藝」と「新潮」が異なるように、それぞれが個々のジャンルや傾向を確立し、他ジャンルが交わる隙もないのだろうと思ってきました。私自身、創作スクールに通っていたこともあるのですが、純文学系のスクールでは「あなたの文章遣いはエンタメっぽい」と指摘され、また、エンタメ・スクールでは「あなたの物語は純文学みたいでエンタメらしくない」と言われました。創作という最も自由であるはずの世界に於いて、ジャンルとはこれほど鉄壁なものかと愕然とさせられたものです。なので金魚セミナーの中で、ジャンルの異なる先生方が、相違点よりも共通点を見出そうとされていたり、あるいは、相違点を受け入れ難いものとするのではなく「面白いもの」として分かち合い、対談されていた姿が、私には純粋に新鮮でした。

またもう一つ、ここに書き留めておきたいことがあります。セミナーでは文学金魚新人賞の歴代受賞者たち(まだ第1回と第2回のみですが)が勢揃いで現れて、セミナー参加者たちに挨拶をしましたが、これには驚かされました。私には新人賞を獲った知人が何人かいますが、皆が口を揃えて言うことは、いったん受賞してしまえば受賞者同士が顔を合わせる機会などほとんどない、ということです。その意味で金魚セミナーは、参加者だけでなく受賞者たちにも「交流の場」をつくっているのかもしれません。

文学における「交流の場」とは?

この「交流の場」という点は、作家と読者、あるいは読者同士にも当てはまるでしょう。私は昨年の春、作家の阿部和重さんの講演会を聴きに行く機会があったのですが、講演のアフターでサインをもらいに行ったところ、阿部さんが「僕は自分の読者に実際に会ったことがほとんどないので、今日は嬉しい」と仰るので、驚きました。続けて私が、「先生にはたくさんのファンがいらっしゃいますよ。99パーセントが男の子ですけどね」と伝えると、阿部さんはさらに驚いた表情をされて、「そんなの初めて聞きました。僕は自分の本がどういう人に読まれているか知らないし、どんな顔の人たちが僕の本を読んでいるのか想像もつかないんです。僕にファンがいるなんて、初めて聞きました。教えてくれてありがとう」と仰るので、私は本当に驚きました。純文学好きの方ならご存じでしょうが、阿部和重さんはその独特な作風から一部の文学青年に熱烈に支持されている芥川賞作家です。その阿部さんが、読者の顔が想像もつかないとは、ファンの方々は残念ですよね。

でも、まあ、仕方ないのかもしれません。作家と読者が触れあう機会なんてそう頻繁に得られるものではないでしょう。ふだん文学金魚を読んでいる私も、今回のセミナーで初めて他の読者をお見かけしたのですから、大作家ならなおさら、よほど便利なツールでもない限り、ひとり机に向かい孤独な文学の道を突き進まれるのでしょう。よほど便利なツール、SNSみたいな、そう、SNSみたいなツールでもない限り! 

ネットと文学の融合

みなさんはHaruki MurakamiのFacebookを覗いたことがありますか? 世界中のハルキストたちが英語や中国語やロシア語やフランス語やスペイン語や韓国語やドイツ語やペルシャ語で村上春樹の著書について語りあい、新著に感想を述べあう、まさにマルティカルチュラルなページです。たとえロシア語や韓国語ができなくても、自動翻訳ボタンを押せば彼らの意見を読むことができ、また、あなたが日本語で書き込んだ感想もメキシコ人の誰かが、スペイン語翻訳で読むかもしれません。私もドイツ人の女性と1Q84について語りあっているうちに、時差を超えてチャット状態になったことがありました。しかもこのFacebookは、村上春樹さん自身も時々チェックされているそうで、「OMG! I've got a reply from Murakami!!」と歓喜の書き込みもよく見られます。世界ではすでに文学はネットと連動したものになっているのです。

また、アメリカでは大学の創作学部で小説を書く学生たちや、すでに社会人で小説家を目指す人々、あるいはただ純粋に文学が好きな人々などがウェブ上で文学について語りあうページが、インターネットが登場した頃から今に至るまで数多く存在します。これにはいくつかの理由があって、アメリカが日本よりも電子書籍の発売と普及が早かったということもありますが、アメリカの国土的条件も大きく働いています。たとえば、文学セミナーがニューヨークで開催されたとして、ロサンゼルスから行くのには飛行機で5時間かかります。しかも時差があるので、セミナーの始まる時刻に遅れないように注意しないといけません。広い国土ゆえに全国から参加することが困難なので、ネットが頼りになるのです。

それでは逆に、人々がネット上ではなくリアルに会うことの利点はどこにあるのでしょうか?

文学金魚セミナーに参加して、それが分かりました。私と同じように、ふだんスマホやPCで配信作品を読んでいる人々がどのような人々なのか、阿部和重さんが言っていたように、どのような顔をした人々なのかが、ひとつ屋根の下に集うことで分かりました。ネット配信の文芸書だけに若い人がほとんどだろうと想像していましたが、実際に集まったのは年輩の方々も多く、男女の割合もほぼ半々でした。そしてみなさん、容姿も職業も様々だけれど、文学が大好きだという共通点を持っていました。文学の集いに来るのだから当然かもしれませんが、その当然な様子を目の前で見ることのリアリティは私に力を与えてくれました。淡い連帯感のような感情が胸に湧きあがるのを感じました。そして、私ももっと本を読もう、毎日少しずつでも文章を書こうと思いました。そのように感じたのは私だけではないと思います。文学金魚のセミナーが今後も2回、3回とずっと続いていってほしい。ネット空間という名の海を泳ぐ金魚のように、やがて読者層が重なりあって厚くなり、これからの時代を築く新しい文学がさらに発展していくと、私は信じています。

セミナーの一週間後、私は自身のツイッターで上記の文章を感想として流しました。すると、多くの参加者や登壇された作家の方からリアクションを頂くことができました。また、一部の登壇作家さんがツイッター上で、文学ジャンルを巡ってフォロワーの方と文学論争をなさったのを見て、私は微力ながら自分の感想文が何かしらの影響を与えることができたのではないかと妄想し、ひとり嬉しくなりました。

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