生きてることが辛いなら
息をするのがくるしい。生きてることが辛い。
そういう瞬間はわたしにも幾度となくあったし、これからもきっとあるだろう。
今回は、わたしがそんなときに考えていることや、いつもそれをどうやって乗り越えようとしているのかについて書いてみようと思う。
誰かのお守りになったらと思って、生きてることが辛いあなたに届くといいなと思って、今これを書いています。
はじめに
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」という歌がとても好きだ。ちょっぴり落ち込んだときに聴いて、元気をもらう。
特に好きなのがこの部分。
生きてることが辛いとき、だから死んでしまおうとか、だからやめてしまおうと思うのではなく、それを真っ直ぐに受け止めてそれでも生きていこうとする、そういう人間でありたいとわたしはいつも思う。
たとえば、前にこんな記事を書いた。
こんなわたしの気持ちも、簡単に言ってしまえば「辛い」とか「苦しい」とか、そういうふうに片付けてしまえるものなのかもしれないけど、
でも、そうじゃなくて、諦めたくない気持ちとか、あたたかい思い出とか、わたしの気持ちのなかに含まれているぜんぶを出来るだけ言葉にしていくことで、
生きることを希求するわたしを掘り出して忘れないでいたい、と思っている。
(1)生きてることはなぜ辛いのか
「生きてることが辛い」といいつつ、ほんとうに辛いのは生きていることそのものではなくて、その人なりのもっと具体的な問題があるんじゃないか、とよく思う。
でもそれを見つけることができなかったり、言葉にすることができなかったり、大きな問題をうまく分解することができなかったりする。あと、辛さに向き合うことそのものができないとか、受け止めるエネルギーが足りないこともある。そこがむずかしい。生きていることぜんぶが辛いように感じて、投げ出してしまいたくなってしまう。
むずかしいけど、でも、その辛さにずっと脅かされるのは嫌だから、
わたしはまず「生きてること」って何かとか、そのなかでほんとうに辛いのはどの部分なのかについて、考えてみることにしている。
「生きてること」のなかには、寝ぼけながら眺めた朝日が綺麗だったとか、赤ちゃんの手のひらがふわふわしていたとか、そういう小さなしあわせが含まれていると思うから、
元気なときこそ、それを忘れないように日記とかメモを残すようにして、わたしにとっての「生きてること」をゆっくりと積み上げている。
前に、こんなことを書いた。
問題から逃げ続けたり、その都度対症療法をしたりするのではなく、その問題に根本から立ち向かって解決したい、ということです。いまもまだその方法を探している途中。
(2)生きてることはいつ辛くなるのか
ところで、生きていることはいつ辛くなるんだろう。
わたしが「生きてることが辛い」と思う瞬間をいろいろと思い出しながら、自分のなかにぼんやりある分類をつけてみました。
◆わりとすぐにどうにかなりそうな辛さ
たとえば
・食べたいものがぜんぜん思い浮かばないとき
・レポートや課題が終わらないとき
・人間関係に問題があるとき
ここらへんは、自分の気持ちが問題を大きく感じているだけで、実は問題そのものはちっぽけなので、思い切って冷静に処理すれば大丈夫なケースだとわたしは思っています。スパッと解決して忘れちゃいたい。
◆数ヶ月に一度くらいのまあまあな辛さ
たとえば
・呼吸に体力を奪われるくらい疲れているとき
・家族関連の問題に突き当たるとき
・お金の問題に突き当たるとき(奨学金とか)
・自分の容姿や能力を受け入れられないとき
これらは、問題をスルーすることが難しいのと、処理というか解決に多少の努力と労力が必要とされるので、わたしはいつも、まずエネルギーをチャージしてから問題に向き合うようにしています。いっぱい寝たり、美味しいもの食べたり、明るい時間にお風呂に入ったりします。
◆深刻めでまだ解決の目処が立っていない辛さ
たとえば
・自分が世界を壊しているとき(つまり常時)
・災害(特に地震)のニュースを見たとき
・何かわからないけどとにかく辛いとき
解決の目処が立っていないからこそ、生きてることそのものをやめてしまいたくなる。諦めてしまいたくなる。
わたしが死んで世界が良くなるなら、あるいは問題が何か解決するなら、そうすることに意味があるのかもしれないけれど、
残念ながらそんなことはないから、わたしは世界を修復できる力を手にしたいなあと思いながら、ちっぽけな一歩を踏み出し続けている。
(3)「生まれてこないほうがよかった」と、「生きるのをやめたほうがいい」はちがう
昔どこかで、「一度死にたいと思ってしまったら、そう思う前の自分にはもう戻れない」という言葉を見たことがある。
ほんとうにそうだとわたしも思う。
わたし自身も、傲慢ながら「死んでしまいたい」とか「生きるのをやめた方がいいんじゃないか」と思ったことがあるし、そう思うまでの自分といまの自分は全然違ってしまっていると感じる。
それでも、いまのわたしがそうしようと思わない(それが正しいと思わない)のは、ベネターという哲学者の「生まれてこないほうがよかった」と、「生きるのをやめたほうがいい」はちがうという考えに、なるほど、と思ったからです。
デイヴィット・ベネター(1966-)は反出生主義という考えを提唱した哲学者で、彼は「人間は例外なく全員、生まれてこないほうがよかった」「わたしたちは次世代を生み出すべきではない」というようなことをいった人物です。
ほんとうはその主張についても丁寧に説明すべきだけど、一旦ここでは割愛して、「生まれてこないほうがよかった」と「生きるのをやめたほうがいい」はちがう、という部分だけ紹介しようと思います。
*誤解されやすい思想なので、気になった人はきちんと本を読んで自分で勉強してください(わたしの説明もざっくりすぎて信頼ならない)!
例えば、映画館で観ている映画があまり面白くない(「見ないほうが良かった」)としても、いますぐに見るのをやめて出ていくべき(「見るのをやめたほうがいい」)というわけではない。ましてや、映画館の外に屈強なボディガードが立っていて、途中退出した人を心ゆくまで殴るというおまけつきだったら、見ないほうが良かったなあと軽く後悔しつつも、最後まで見続けるほうが合理的だと考えるだろう。
ベネターはこのような例を引き合いに出しながら、生きていることが苦痛に満ちていて、生まれてこないほうが良かったとしても、死という苦痛を伴ってまで今すぐに生きることをやめたほうが良い、ということにはならない、と説明します。
わたし自身は、このようなベネターの説明に完全に納得したというわけではないけれど、でも、このように生きること/あるいは死ぬことについて考える視点を自分が持っていなかったことに気づいてから、結論を保留しているというか、もっときちんと考えたい、と思うようになって、
だからまだ、「生まれてこないほうがよかった」と、「生きるのをやめたほうがいい」はちがうかもしれない、ので生きてみよう、と思っている。
おわりに
たまに誰かから漏れ出てくる声を聞いて、みんな見えないところで苦しんでいるんだなあと改めて気付かされ、わたしもがんばろうと思える。
今日のわたしのnoteも、いつか誰かの勇気や元気の一部になったらとてもうれしいです。
ちっぽけなわたしの苦しみや悲しみ。
ちっぽけだなあと思うことで元気が出てきて、なんとなく立ち向かえるような、引き受けられるような気がしてくる。
でも、ちっぽけであることは、決してどうでもいいとか無駄であるとか、そういうことではなくて、ちっぽけでもわたしにとっては大切な気持ちだし、わたしの一部であると思っています。
【おまけ】わたしのお守り
今回は本の紹介の代わりに、わたしがお守りにしている言葉を五つ載せておきます。
一つ目は、谷川俊太郎さんの「これがわたしの優しさです」という詩です。
二つ目も谷川俊太郎さん。「十二月」という詩です。
三つ目は、尾崎豊の「僕が僕であるために」という歌です。
サビの「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない 正しいものが何なのか それがこの胸に解るまで」という部分が、自分の信念と重なっていつも勇気をもらっています。
四つ目は、スキマスイッチの「全力少年」という歌です。
「試されてまでもここにいることを決めたのに 呪文のように仕方ないと呟いていた」という部分を、なにかあるたびに噛み締めるように聴いています。
最後は、東野圭吾の『片想い』という本の一節です。
わかり合えなさとか、世界の正しくなさに絶望するとき、いつもこの言葉を思い出してこれも「片想い」なのだと思ったりします。
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