「大人」のための「子どもの哲学」
「子どもの頃、私たちは盛んに哲学をしていた」と思う。
子どもの世界はすべてが不思議に満ち溢れていて、なぜだろう、どうしてだろうといつも問い続けているように見える。
だとすれば、自然に哲学をする子どもたちに、日々を全力で生きる子どもたちに、「子どもの哲学」を強いる必要はあるのだろうか。「子どもの哲学」って、誰のためにあるんだろう。
いつから、私たちは哲学をしなくなったんだろう。
もしかしたら、問うことをやめた瞬間に、私たちは「大人」になったのかもしれない。自分の問いに答えがないと諦めてしまったあの瞬間や、人それぞれでしかないと考えるのをやめてしまったあの瞬間に、私たちは「大人」になってしまったのかもしれない。
わたしは幼い頃から、「ひとはなぜ生きるのだろう」という問いに囚われ続けている。ずっと昔、その答えは本に書いてあると信じて頁をめくった。教科書や先生が教えてくれると信じて勉学に励んだ。見るもの聞くことの全てが、自分の問いに対する応答のような気がしていた。
でも、年齢が上がるとともに、気づいたら問うことから遠ざかってしまったように思う。自分の問いには意味や答えなんてないのかもしれないと思うようになったし、当時のわたしの毎日は、問い続けるにはあまりに忙しすぎたから。
いつからか、わたしは問うことを、哲学することを、やめてしまった。
ウィドゲンシュタインは、しばしば哲学を潜水に喩えたという。
哲学的に思考するためには、浮き上がってしまうその自然の傾向に逆らって水中に潜ろうと努力しなければならない、という意味である。
そこから、水面に浮かびがちな人と、水中に沈みがちな人の二種類の人間がいるのではないかと考えた哲学者がいる。
これが正しければ、きっとあの頃のわたしは水中に沈みがちな人間に分類されるのだと思う。中学生のころ、生きることの忙しなさにパンクしてすべてを放り出した数ヶ月、「わたしはなぜ生きているのだろう」という問いから抜け出すことができなかった。問うことから力を得た。問うために、もう少し生きようと思った。
でも、やはり問い続けるにはわたしの生きる日々は忙しすぎたようで、いつからか水面に浮かぶことを覚え、高校に上がる頃にはまた、水中に沈むことは随分と少なくなった。その頃のわたしは、目の前のことに一杯いっぱいで、問う間もないほど駆け抜けるように生きていた気がする。
しかし、水中に潜ることを忘れかけていたわたしに、水面下の世界を教えてくれた先生がいた。この先生との対話のおかげで、わたしはわたしの哲学を取り戻した。
大学に進学して、自分よりずっと「沈みやすい人」に出会った。その人はほんとうに沈みやすい人で、どんなときも水中にいて、水面に浮かぶ方法を知らないように見えた。まるで泳ぐことを知らない子どものようだと思った。この人に出会ってから、いつからか自分が水面に浮かびがちな、「大人」になっていたことに気づいた。その人の水面下の世界を眺めていたら、それがあまりに美しくて眩しかったから、わたしも自分の水面下の世界が恋しくなって、また少しずつ水中に沈むようになった。
ほんとうは誰しも、水中に沈みやすい人だったのかもしれない。子どもとは、常に問い続ける存在であり、哲学する存在であり、自然に潜水する存在なのかもしれない。しかしいつからか、忙しなさに飲み込まれて水面に浮かぶことを覚え、潜ることを忘れた「大人」になってしまった。
忙しく過ぎる日々の中で、私たちはいつ哲学をするんだろう。私たちの日常のどこに、哲学を差し込む余白があるんだろう。わたしは、潜ることを忘れてしまった「大人」のために、「子どもの哲学」があるのではないかと思う。「子どもの哲学」は、問うことをやめて「大人」になろうとする子どもや、すでに「大人」になった先生や学校、親のためのものなのかもしれないと思う。
恩師との対話は、「大人」になりつつあるわたしのための時間だったのかもしれない。そして、「大人」だった彼の問いを取り戻すための時間だったのかもしれない。わたしはここに、教育の場で問いを育てる「子どもの哲学」の意味があるのだと思う。「大人」になろうとしているすべての人が、ともに子どもになることができるものだから。
なぜ、「問うこと」や「哲学すること」、「子どもでいること」に価値があるのか。そもそも、そこには価値があるのだろうか。
正しい答えはわからないけれど、わたしは、誰かの水面下の世界に、世の中の人が求めている「答え」が落ちているかもしれないからだと思う。
今、世の中には人々の頭をずっと悩ませている、たくさんの問いがある。
例えば、「持続可能な社会はどうやったら実現できるのか」。誰も答えを知らない、けれど今考えねばならない重要な問いに対する答えのヒントを探すために、私たちは誰かの水面下の世界を覗いてみるのかもしれない。
そして何より、子どもの頃に見たあの水面下の世界の美しさが忘れられなくて、一抹の寂しさを抱きながら日々を過ごしているからかもしれない。「大人」になって潜り方は忘れてしまっても、あの眩しさを忘れることができないからかもしれない。だからこそ、お酒を飲んだとき、恋バナが盛り上がったとき、本を読んだとき、歌を聴いたとき、私たちの心はその懐かしさに触れて震えるのかもしれない、と思う。
今日もわたしは、水面下の世界を彷徨っている。日常の忙しなさに逆らいながら、奥へ底へと沈んでいく。沈み続ける恋人に手を取られ、共に溺れていく。
ふと、「子どもの哲学」は、子どもと手を取り合って水中に沈んでいくことなのかもしれないと思った。
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