【小説】狼煙

昔、ある家の暖炉の前で若い男女が寄り添っていた。
「明日、お父様のご友人の、ご子息のところに嫁ぐの。」
男は表情ひとつ変えず、暖炉の火を見つめている。
「ねえ知ってた?昔の人は、大きな火を起こして自分の居場所を知らせたらしいわ。」
暖炉の薪が炭になった部分から鈍い音を立てて落ちていく。
「私、何もかも嫌になったら、家を燃やしてしまおうと思うの。」
そうしたらあなた、絶対に私を見つけてね。
若い娘の言葉に、男はゆっくりと頷くと、自分の手を娘の手の甲に重ねた。

男はそれから一日の大半を、窓から外を眺めることに費やした。食事や入浴も短時間で済ませ、窓の外を眺める。自分が目を離した隙に、どこかで大きな煙が上がるかもしれない。男のそんな淡い期待をよそに、一週間、一ヶ月、一年と、時は無情に過ぎていった。

何年か経ったある日、男は窓から離れ、机に座り、紙とインクとペンを取り出した。手紙を書くのだ。自分の体調のこと。ここ最近の気候のこと。何年も窓の外を見て過ごしたこと。段々と姿を変えていく、二人で過ごした街のこと。几帳面な文字で埋めた紙を二つに折ると、引き出しの奥にあった封筒に入れる。封をしてから、あることに気付く。
宛先がわからない。
男はしばらく考え込んだあと、封筒の右下に自分の名前を書くと、出来上がった手紙を引き出しの奥にしまった。

男は何通も手紙を書いた。朝起きては机に向かい、己の過ごした日々を手紙にしたためる日々。執筆の合間に時々顔を上げては、窓の外を確認する。何の変哲もない、日常が流れている。
出来上がった手紙は、最初は引き出しに丁寧にしまっていたが、徐々に引き出しから溢れ、机の上、床に散らばっていき、しまいには書斎を埋めるほどの量になり、大量の手紙に埋もれる形で、男は毎日手紙を書き続けた。
次第に窓の外を眺める回数も減り、ただただ、宛名のない手紙を書くだけの日々を送った。

それから何十年もの時が経ったある日、手紙の束で歩くスペースも限られた家に、一通の手紙が届いた。
男は幾分か霞んでしまった目で差出人を確認すると、首を傾げた。どこかで聞いた名前のような気がする。男は記憶を探るが、まるで靄がかかっているようにぼやけていて、思い出せるのは、あたたかい空気と、パチパチと何かが燃える音だけ。男は机に向かい、その手紙の裏にまた手紙を書いて封をし、右下に自分の名前を書いた。

それからまた、何年の時が過ぎただろうか。
男の家は玄関先までびっしりと、自分で書いた手紙で埋まっていた。仮に男の元に誰かから手紙が届いたとしても、男はそれに気付く手段すら持っていない。ただ、もう誰に宛てているのかもわからなくなった手紙を、狂ったように書くだけの日々。

ある冬の日、男は誤って手元にあった紅茶の入ったカップを倒してしまった。茶色く透き通った液体はみるみるうちに手紙を汚していった。
男は発狂した。その声は辺りに響いていたが、誰も彼もが聞こえないふりをした。頭のおかしくなった老人の叫び声は、悲しく、長く、響き続けた。

その日の夜、男は家中の手紙を河原に運ぶと、マッチを擦り、火をつけた。その火はみるみるうちに手紙を覆いつくし、大きな炎となって夜を照らした。長い冬の真っ只中、力強く燃える大きな炎に、街の人々は吸い寄せられるように近付いた。

男は炎の前に座り、揺らめく炎をぼんやりと眺める。そういえばいつだったか、こんな気持ちで火を見つめたことがあったような気がする。
そのとき、男の隣に若い女性が腰を下ろした。その女性はあの時の娘にそっくりな顔をしていたが、男はずっと火を見るばかりで、隣に人が座ったことすら気付いていなかった。女性はしばらくじっと火を見つめていたが、ゆっくりと口を開いた。

「私が小さい頃、今はもう死んでしまった祖母が、家に火をつけたことがあるんです。」
「そのときもこんな風に寒い夜で、大きな炎と煙がこんな風に上がっていて。」
「安全な、遠くの場所で見ていたのにあたたかくて、不謹慎だけど、なぜか、穏やかな気持ちになったのを覚えてるんです。」
「おじいさんは、何を燃やしているんですか?」

男は空にのぼる煙を見上げていた。しかし、男のくぐもったビー玉のような目は、もう何も映していなかった。

「何も燃やしてやいないよ。ただ、大きな火を起こしていただけだ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?