【小説】東京タワー
東京の君へ
お元気ですか。こちらはどうにかやっています。最近、ラーメンとチャーハンを同時に頼むことを躊躇するようになりました。僕も人並みに歳を重ねているようです。昨日君に手紙を書こうと思い立ってから、100均に便箋を買いに行ったものの、君の好みがわからなくて10分ほど悩みました。考えてみれば、僕は君の名前すら知りません。勿論住所も知らないので、この手紙は書いたあと、どこかにしまうことにします。あの日僕が東京に行った理由を話していませんでしたね。なるべく人が多いところが良かったのです。僕のことを知らない人で埋め尽くされた街が良かったのです。人混みの中、赤信号に自ら吸い込まれに行く僕を、止めてくれたのは君だけでした。君はおそらく止めるつもりなんかさらさらなくて、ただアルコール漬けの身体を支えるために僕の袖を引っ張った。死のうとしていました。君はそれを邪魔したのです。今にも倒れこみそうな君を支えてしまったとき、正直バカなことをしたと思いました。タイミングを逃した僕は、死ぬまで生きる未来が見えてしまったから。酒に酔った君の話で、今でも時々思い出すことがあります。手相が見れるという話のときに、公園の薄明かりを頼りに僕の手のひらを見て「お兄さんは好きな人の副流煙で死にまーす」と言ったこと。なんだか何もかもどうでも良くなったこと。なんだか少しだけ、ホッとしてしまったこと。
今日、恋人にプロポーズをしました。そして、喫煙者の妻ができました。
ありがとうなんて言ってしまえば過去の僕が報われないので言いません。ただ君に手紙を書きたくなりました。どんな顔をするだろう。もう顔なんて覚えてないけれど。僕はもう東京に行くことはないと思います。君に会いたいとも思わない。君も僕のことなんて覚えていないでしょう。もしかしたら、あの日の記憶はアルコールと一緒に飛ばされたかもしれない。そうだとしたら、嬉しいです。酒に酔った君をおぶって観た景色をまだ覚えています。夜の東京はジメジメしていて気持ちが悪かったな。僕が死ぬとき思い出すのは、あの不自然なくらいキラキラした景色でしょう。「せっかくの東京観光、写真くらい撮りなよ」と言われて撮った写真を同封します。背中の君の騒がしさでブレているけれど、思い出は滲んでいるくらいがちょうどいいですね。あまり長く書いても引かれると思うのでこのへんで。お酒はほどほどに。それでは。
自殺未遂くんへ
お元気ですか。私はちょっと元気じゃないかも。宛名のない遺書なんて遺書の効力はおろか読まれる可能性もゼロなので、この手紙は書いたあと、捨てることにします。それでも書こうと思ったのは、きちんと覚悟ができたこの数日で、あの光景を思い出したからです。あの日、私、まったく酔っぱらってなんかいなかった。我ながら良い演技だったと思う。女優になればよかったかな。女優になって癌で亡くなって、みんなに惜しまれる最期も悪くなかったかも。ところで君は、余命宣告をされたことがありますか?「あと2年ですね」と言った医者の顔をずっと覚えてる。何かを期待するような目。耳にこびりつくねっとりした声。病院を出た私は自暴自棄になったふりをして居酒屋に入りました。結局こういうときに取り乱せる人が上手くやっていけるんだろうな、とか、上手くやれなくてもまああと2年だしどうでもいいか、とか思いながらハイボールを飲みました。やっぱりいつも通り酔えなくて、それなのに街全体の酔っ払ったような喧騒が馬鹿馬鹿しくて、ぼんやりと信号を待っていたときのことです。私は死のうとする君の前で倒れてみました。そのときはわからなかったけど、たぶん、許せなかったんだと思う。「お前はもっと生きられるのに」じゃなくて、余命を告げられた日に死を目の当たりにすることが。それから2時間ほど散歩をしましたね。私の人生の中のたったの2時間。年表を書いたらきっと0.5ミリにもならない時間。夜の東京はジメジメしていて気持ちが悪かった。私の着ていたトップスが汗で透けているのを気付かないふりする君が面白くて私、ずっと笑っていました。変な時間だったな。最初は肩を貸してくれていた君が「こっちの方が楽だから」としゃがんだとき、「変なの」と言ってしまったけれど、今でもそんな気持ちです。本当に変な時間だった。変で変でどうしようもないから、今こうして思い出しているんだろうな。君が東京タワーの写真を撮っているとき、無意味に暴れたのは絶対にこっちを見られたくなかったからです。私が死ぬときに思い出すのは、あの涙で滲んだ東京タワーだと思う。水分で引き伸ばされた光が、流れ星みたいで綺麗だったから。今夜は星が綺麗です。もしかしたら本当に流れ星も、あ、今流れました。私はすぐに死んでしまうので、君のことを願うことにします。あの日死に損ねた君が、未来で笑っていますように。
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