【小説】改札になった男

誰も喋らないくせに「うるさい」という言葉がぴったりの雑踏をぼんやりと眺める。俺の両脇を早足で通り抜ける人、人、人。地球上のどこに収容されていたのかと思うほどの人数が同じ方向に進む様はまるで軍隊、いや何かの儀式のようだった。その異様さも今では慣れたものだ。頭上で鳴り続ける「ピッ」という音をBGMに目を閉じる。

24歳の誕生日翌日、俺は事故で死んだ。
飲み過ぎないでよ、と見送ってくれた彼女、ユイの忠告を無視して友人と飲み明かした次の朝、トラックにぶつかって死んだ。ドラマでよくある走馬灯は特になかった。かろうじて浮かんだのはアパートのドアを開けて心配そうに忠告するユイの顔。ごめん、普通に飲み過ぎたわ。

あれって本当に死ぬんだな、なんて今思えるのは、俺が今この世に存在するからだ。

あの日、目が覚めると俺は暗闇の中にいた。身体が重く、そのままの体勢でいると段々目が慣れてきて、目の前に券売機がぼんやりと姿を表した。飲み過ぎて駅で寝たかな、帰らないとユイにまた注意されるな、なんて考えながら立ち上がろうとするが、身体が石のように動かない。これは救急車を呼ぶべきか、と思ったところで思い出す。俺はさっき、トラックに跳ねられなかったか?

突然ガラガラガラという音が辺りに鳴り響き、少し遅れて遠くの方から光が差し込んできた。やっぱりここは駅だ。どうやら俺は改札の間に座っているらしい。なんでこんな所に。段々頭が冴えてくる。トラックに跳ねられた記憶がまるで現実のように鮮明に思い出される。

その時、ひとりの男が階段から姿を表した。男は歩きながら鞄を探るとスマホを取り出し、俺に近づいてくる。声を出そうとするが、まるで夢の中にいる時のように声が出ない。なんだこいつは、おい。男が取り出したスマホを俺の頭上にかざすと、どこかでピッという音がなった。何事もなかったかのように俺の脇を通りすぎていく。なんだったんだあいつ。なんとなく頭をかこうとする。あれ、俺、手がない。

自分の現状をなんとなく理解するまで一週間はかかったと思う。いや、二年ほど経った今でも信じられてはいない。死んだはずの俺が、改札として生きていることなんて。

朝の通勤ラッシュが過ぎ去り、駅は平穏を取り戻しつつあった。この感じだと今日は月曜日だろう。ここには日付を確認するスマホもなければ、当たり前だがカレンダーもない。見えるのは券売機の並ぶいつもの光景だけ。この姿になっておそらく二年。これが夢であるならば、ずいぶんと長い夢だ。俺はなんとなくわかっていた。これは夢じゃない。おそらくここは、現代の地獄だ。

俺は地獄に堕ちたんだと思う。いや、正確に言うと堕ちるべくして堕ちたと思う。人を殺めたり、犯罪をおかしたりはしていない。ただ、俺は一人の人を真っ向から傷付け、結局最後までその事に気が付きもせず死んだ男だからだ。

ユイは本当に穏やかな人だった。何をされても笑っているような人。なぜ怒らないのかと一度直接聞いたことがある。その質問に対してユイは小さく笑って、「怒れないんだよ」と言った。その時はたぶん、「ふーん」と言って流したと思う。なにがふーんだよ。なにもわかっていなかったくせに。

後悔しかない。ユイの誕生日に高めのレストランに行き、美味しそうに食べるユイに「更に太るぞ」と言ったこと。珍しく遠出をしたデートで体調を崩したユイに「せっかく遠出してんのに」と言ったこと。あの日、「え、飲みに行くの?」と言われて「誘われたんだからしょうがないだろ」と言ったこと。俺はユイの鞄から俺宛の手紙が覗いていたことも、笑顔を崩さないユイがほんの一瞬だけ泣きそうな表情をしたことも、全部気付いていた。気付いていたけど、ケーキでも買って帰ればいいだろうと思っていた。そしてそれどころか、俺の誕生日に俺がケーキを買うのはなあ、くらいに考えていた。

顔も知らない人間が何度も何度も俺の身体を掠めるように通りすぎていく。ここには気を紛らわせる煙草も、YouTubeもない。後悔が後悔のまま存在することの苦しさを、俺はこの姿になって初めて知った。神様はこれが狙いだったんだろう。いくら反省しても絶対に許してもらえない環境で、死ぬまで、いやもう死んでいるのだからおそらくこの先ずっと、ない膝を抱えて己と向き合う日々。地獄は随分現代的になったものだ。

ふと、なにかが香った気がして目を開けた。頭上でピッという音がする。どこか懐かしい匂い。長いスカートが俺のかつて肩だった辺りに当たる。そうだ、柔軟剤。家で使っていたやつだ。思い出した。たしかユイがお気に入りだからとか言っていつも海外のネットショップで買っていたやつ────

息を飲んだ。ふわふわと緩くパーマをかけた髪、歩幅の狭い歩き方、少しふっくらとした後ろ姿、あの大きなグレーのバッグ。
“ユイ”
俺は出ない声で名前を呼んでいた。無意識だった。当の本人は辺りをキョロキョロ見回すと、「あ」と言って券売機の方へ駆け寄った。ユイが駆け寄った先で右手を上げる男。見覚えのあるひょろっとした体格。

「ユウトごめん、待った?」
「ううん、大丈夫」
ユウトと呼ばれた男はユイの持っていたエコバッグを指すと、持つよ、と言いながら手を差し伸べていた。照れたように笑うユイがユウトにエコバックを渡す。エコバックを肩にかけたユウトが行こっか、と言うと、2人は階段に向かって歩き出した。
“ユイ、ユイ”
俺は必死に名前を呼ぶ。俺にすら聞こえない声がユイには聞こえるんじゃないかと、バカみたいな望みをかけて繰り返す。2人は階段を降りてとうとう見えなくなってしまった。

ユウトは俺の幼馴染みだった。幼稚園から義務教育までの間を同じ学び舎で過ごし、高校こそ違う所に行ったものの、なぜか度々連絡を取り続けていたような、所謂腐れ縁のやつ。お前がなんで、ユイと。

考えているうちに、段々と胃袋が上がってくるような感じがした。当然今の俺には胃袋もなければ吐き出せるような異物もない。それなのに頭だった部分は熱を持ち、身体だった部分は締め付けられるように痛む。答えはわかっていた。わかりたくはなかった。ユウトは優しいやつだ。根っからのお人好し。俺が死んだあとのユイを、友人の視点から慰められるのはユウトくらいしか思い付かなかった。

それから俺は度々、2人の待ち合わせを見守るようになった。見守るなんて言葉は俺の最悪な気持ちからすると相応しくないような気もするが、何もできないから結局は見守ると言うことしかできない。ユイのロングスカートが俺の肩を撫でる度、柔軟剤の香りを認識する度、俺は爆発しそうな気持ちを抱えながらじっと耐えることしかできなかった。ユイを確かに感じているのに、腕を掴んで呼び止めることすらできない。俺はここにいるのに。

そのうち2人は手を繋ぐようになった。いつものようにユウトが「行こっか」と言うと、ユイの方に手を差し出す。ユイはやっぱりいつものように笑ってその手を取るのだ。見たくなければ目を閉じればいいものの、なぜだか見なければいけないような気がして、2人が階段に消えるまでじっと見つめる。神様は趣味が悪い。趣味が悪いが、これが俺に許された贖罪なら、俺はこれを見届けることしかできない。

何度も朝が来て、何度も夜が来た。
終電が終わり駅のシャッターが閉じた後の時間が、俺にとっては一番つらい時間だった。2人の幸せそうな姿を見る時よりも、何倍も苦しい時間。身体もなければ脳もないんだろう、俺には睡眠という機能すらも与えられていなかった。暗闇の中、生きていたときのように目を閉じる。眠れないのにこうして目を閉じるのは、ユイの顔が鮮明に思い浮かぶからだ。

ユウトは優しいやつだから、ユイはきっと俺といるときより穏やかに過ごせているんだろう。嫌味を言われて傷付くこともなければ、自己中心的な発言に困ることもない。俺といるよりもきっと、ずっと幸せなんだろうな。優しいやつだけどたまに尖ったことを言うときもあるから、傷付いてないかな。自己中心的な発言はしないやつだけど天然なところがあるから、困ってないかな。

ユイは俺が死んだことをどう思っているんだろう。悲しんでくれただろうか。もしかしたら、まだ悲しんでいるだろうか。ユイの泣きそうな顔が閉じた瞼の裏に映る。ユイの肩にユウトの手が置かれる。ユイがユウトを見て少しだけ微笑む。ああ、そうだな。ユイの泣き顔は、見たくないな。

爆発しそうだった俺の気持ちは、日を追う毎に少しずつ和らいでいった。ただそれでも、俺の中の後悔だけは形を変えずにそこに居座り続けていた。

それから何年か経った日曜日の夜の事だった。最近は手を繋ぐこともまれになった2人が階段を上り、券売機の横で足を止める。今日の駅は一段と騒がしく、2人の会話はここまで届かない。向かい合ってうつ向きながらユウトが何か喋ると、ユイは小さく首を降った。しばらく2人とも口を開かなかったが、あからさまに作ったとわかる笑顔でユウトが何か言うと、顔を上げたユイも力なく笑った。何度も何度も、俺に向けた表情。

2人は小さく手を振り合うと、ユイだけが改札に向かって歩いてきた。ユイはユウトに背を向けた瞬間、顔をぐしゃぐしゃに崩した。あと一歩進んだら溢れるくらいの涙と、力の入った唇が今日のすべてを物語っていた。ああ、そうだったのか。俺は知らなかったんだ。あの力ない笑顔のあと、俺が背を向けたときユイは、こんな表情をしていたんだ。

ユイが俺の横をすり抜ける。歩いた振動で溢れたであろう涙が、俺の身体を濡らした。謝りたかった。ユイのその表情を作っているのは、いつだって俺だ。この事だって、俺があの日、飲みに行かなければなかったはずの現実だ、ごめん、ごめん、ごめん、ユイ。

ユイはぱったりとこの駅に姿を現さなくなった。死んだ俺の地元であり、それを慰めてくれた元カレの地元であるここには、たとえ用事があったとしても来たくないだろう。俺はもう会えないであろうユイのことを思い、嘆きながらどこか安心していた。ユイはこれから、ここを離れて幸せになるんだ。もっともっと良いやつを見つけて、もう二度と泣かないで過ごすんだ。

それからおそらく三年は経っただろうか。もう考えるのも面倒だが、俺が改札になってからずいぶん経った。私立小学校に通っていた小さな子供はもう大人のような顔つきになり、休日出勤ばかりするサラリーマンは転職でもしたのか最近めっきり見なくなった。こう見ると、大人って本当に変わらないな。俺は何か変われただろうか。

騒がしい金曜の夜が明け、土曜日の朝が来た。相変わらずぼんやりと券売機の方を見て過ごす日々。始発電車が到着したらしく、どこか間延びした喧騒がホームの方から聞こえてくる。ゆっくりとしたテンポで鳴るピッという音を頭上で響かせながら、改装されたばかりの券売機に手こずるおじいさんを眺めていたときのことだった。

ふわっとあの匂いが香った。ハッとして横を見る。ゆっくりと俺の横を通り抜ける、相変わらずのロングスカート、グレーのバッグ。そのバッグに違和感を感じて、離れていくユイの手元に視線を集中させる。ユイのバッグには小さなキーホルダーがついていた。ユイは階段の前で一度立ち止まると、少しだけ大きくなったお腹に右手を置いてからエレベーターの方へと歩き出した。

俺はたぶん、泣いていたんだと思う。
もちろん涙が出ることはないが、この時俺はたぶん、泣いていた。言葉にできるような感情とは程遠い、後ろからハンマーで殴られたような、熱い風呂に一気に浸ったときのような、喉を搾られむしられるような、それでいて、少し離れたところでヒーターに当たっているような、そんな感覚。そうか。そうか。

俺が生きていた頃、俺の地元はたしか、子育てにちょうどいい街ランキングみたいな名前の誰がつけたかもわからないようなランキングで1位を取っていた。それを教えてくれたのはユイだった。アパートのポストに勝手に投函される地元の冊子を俺に見せてはしゃいでいた姿が浮かぶ。あの時は、そうだ、なんでユイがそんなにはしゃいでいるのか見当も付かず、YouTubeの音量を少し上げたんだ。俺はなにも、本当になにもわかっていなかった。

エレベーターを待っていたユイが開いたドアの向こうに消える。
“ユイ”
もし俺に声が出せたとしても、今の呼び掛けが届くことはないだろう。おめでとうユイ、俺はたぶん、たぶんだけど、うれしいよ、ユイ。

ユイは本格的にこの街で暮らすことを決めたようだった。仕事もここから通っているのだろう、小さいキーホルダーが付いたいつものバッグを持って、毎朝のように早足で駅構内を歩くユイを見かけるようになった。休日にはユイの親御さんたちを一緒に見かけることもあった。それからユイのお腹がはち切れそうに大きくなるまで数ヶ月、ユイの夫らしい男を見かけることは一度もなかった。

なんとなくわかっていた。ユイは結婚をしていない。おそらくお腹の子の父親とユイはもう会ってもいないんだろう。「怒れないんだよ」と言ったユイの表情を思い出す。今の俺なら、その言葉になんて返すだろう。

そこからまた数ヶ月後、開いたエレベーターからベビーカーが覗いた。続くユイの姿。駆け寄りたかった。手を取りたかった。隣にいたかったと思いながら、ゆっくりとこちらに来るユイを見る。ユイは一番端の改札をゆっくり通って、俺の視界から外れてしまった。ユイは健康そうだった。顔の血色もいいし、表情も心なしか明るかった。よかった。よかった。

後からわかった事だが、ユイの子供は女の子で、名前はカエデと言うらしい。カエデは姿を見せる度に大きくなり、脚の生えた抱っこひものような姿から、そのうちに自分で歩くまでになった。俺の脇を2人で通るときは必ずカエデがSuicaを持って、ユイがカエデを抱えて通っていた。俺の頭上でピッという音が鳴り、カエデが幸せそうに笑う。「上手だね~」と言うユイの顔が本当に嬉しそうで、俺はやっぱり泣きそうになってしまった。こんなに幸せそうな人たちを俺は初めてみたし、それ以上に俺自身が満たされていた。俺はこのままここでユイたちを見守ろう。ユイの幸せを作ることはできなくても、ユイの幸せをずっと見守ろう。

終電が去り、静かになった駅にシャッターの閉まる音が鳴り響く。改札になって15年ほど、やっと俺は、穏やかな気持ちで夜を迎えている。いつもの通りぼんやりと目を閉じた。
「おい」
目の前で男の声がして目を開ける。スニーカーとジーンズが見える。なんだこんな時間に。視線を上げて、目の前の人物を認識したとき、ないはずの身体が硬直したのを感じた。
“俺…?”
「まあな、お前、の姿を借りている俺だ」
なんだかよくわからない。幽霊でも見ているのか。そう思った途端、今まで慣れ親しんでいた暗闇が急に怖くなってきた。
「幽霊じゃない、まあ幽霊と思ってもいいが」
“はあ”
「お前、もう改札やめていいぞ」
“へ?”
意味がわからなかった。俺の姿をした知らない幽霊に、改札をやめることを許可されている。
「わからんか?成仏していいってことだよ」
“はあ…”
へえとかはあとかを繰り返す俺に、幽霊は呆れたように続けた。
「成仏記念にな、5分だけ元の姿に戻っていいぞ、んでそれから、上に行ってもらうから」
幽霊はそこまで言うと急に輪郭を失ったようにぼやけて暗闇に消えた。なんだこれ、夢か?改札に生まれ変わること自体がおそらく幽霊以上に異常なことではあるが、突然のことに頭が追い付いていなかった。

改札をやめてもいい。成仏できる。
俺は不思議だった。あんなに望んでいたことが目の前にあるのに、何一つ魅力的に思えなかった。何を言ってるんだ、俺はユイたちをずっと見守るんだよ。そうだな、考えたくもないが、ユイがいつか寿命で死ぬときは、一緒に成仏したいな。

それから何十年が経っただろうか。カエデはすくすくと成長し、中学校の制服で友達と遊びに行ったり、電車で高校に通ったりした。カエデとユイが俺の目の前で喧嘩をすることもあった。俺はハラハラしながらそれを見守っていたが、翌月には仲良く談笑しながら改札を通る2人の姿があった。カエデは就職したようで、しばらくは通勤ラッシュの中でスーツ姿のカエデを見送っていたが、そのうちに一人暮らしを始めたんだろう。カエデの姿は見なくなった。

俺は今生きていたら何歳なんだろう。ユイは一人で寂しくしていないだろうか。ここ何年か、ユイの姿も見ていない。おそらく足腰も弱くなる年齢だ。あまり遠出もしないんだろう。ユイはどんなに歳を取ってもやっぱり可愛かった。きれいだった。生きていた頃、それを伝えられたことが一体何回あっただろうか。どんなに穏やかに日々を過ごせるようになっても根強く消えない後悔のうちのひとつがそれだ。

朝のラッシュがあったから今日は平日なんだろう、そして駅を行き交う人の服装からすると、今は春だ。ぽかぽかした空気が駅の中まで浸透し、誰も彼も冬の緊張が溶けたようなやわらかい顔をして歩いている。俺のちょうど頭上にある時計が12時を示す。

階段を一人の小さなおばあさんが上ってきた。緩やかにカーブを描いた背中を揺らして、階段の手すりを片手で掴みながら上ってくる。ああ、何年ぶりだろう。ずいぶん小さくなったんだな。
そのおばあさんが階段を登り切ろうとしたとき、うまく上がらなかった右足が最後の段を踏み外した。

「ユイ!」
一瞬のことだった。俺の身体は改札からするりと抜け、気づいたときには小さくなったユイの手を掴んでいた。
ユイは体勢を立て直すと足元を見ながら「ありがとうございます」と言って顔を上げた。細かい皺がたくさん刻まれた顔。目尻に入った一番深い皺が、ユイの人生を物語っていた。
「…大丈夫ですか」
一拍遅れて俺の声が耳に届く。ユイはそのままの表情で一瞬固まると、思い出したかのように「大丈夫、ありがとうございます」と言った。

ユイの手を掴んでいた俺の手は、紛れもなく24歳の手だった。ユイが少し困ったような顔をした。
「あ、ごめんなさい」
シワシワで指の曲がったユイの手を、理性を持って離す。次の言葉が出てこない。言いたいことが、あんなにあったのに。
「気を付けてくださいね」
俺はそう絞り出すと、ユイに背を向けた。今何を言っても頭のおかしい人だと思われるだろう。ユイは、ちゃんとこれからも生きるんだ。そしてあたたかいベッドでカエデに見守られて息を引き取るんだ。そこに俺はいられないけど、こんなに幸せなことはない。

「コウちゃん」
ユイが俺の名前を呼んだ。思わず振り返ってしまう。そこに立つユイは髪に緩くパーマを当ててロングスカートを履いたあの時のユイだった。
「あ、いえ、ごめんなさい」
腰の曲がったユイが顔を下に向ける。
「昔好きだった人に、似ていたもんだから」
好きだった人。
喉が締まる感覚がして慌てて息を吸う。俺はちゃんと、ユイの好きな人だったのか。
「じゃあ」
ユイが俺の横を通って改札へ向かおうとする。
「あの!」
突然大きな声を出した俺に驚いたユイが振り返る。

あの日、一緒にいられなくてごめん、飲み過ぎてごめん、かわいいって言えなくてごめん、傷付けてごめん、太ったっていいよ、もっと怒っていいんだよ、本当に、好きだったんだよ。
「お身体大事にしてくださいね」
ユイは軽く微笑むと、「ありがとう」と言って改札を抜け、人混みに消えた。

誰も喋らないくせに「うるさい」という言葉がぴったりの雑踏をぼんやりと眺める。どうかユイが、これから一生寒い思いをしませんように、つらい言葉をかけられませんように、もう二度と、無理に笑顔を作りませんように。段々と白っぽくなっていく景色の中、五十年以上前からそこにある改札の、ピッという音だけが響いた。

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