【小説】六人家族
お父さんが二人になった。お母さんが家を出ていった次の日のことだ。
七時の目覚ましが鳴って一階に降りたら、お父さんが掃除機をかけていた。僕は大きめの声で「おはよう」と声をかけると振り向いたお父さんはいつもの笑顔で「おはよう」と言った。僕は掃除機をピョンと跨いでリビングのドアを開けた。
「おはよう」
そこにはエプロンをしたお父さんがいた。お父さんが持っているお皿の目玉焼きがぷるんと震える。振り返るとそこにもお父さん。お父さんが二人。
僕は椅子に座り、目の前に置かれた目玉焼きを見る。お父さんが増えてしまった。不思議と驚きはなかった。でもなんだか、悲しかった。
僕の記憶が正しければ、お父さんがこうなったのは二回目だ。あの日、一階から聞こえてくるお父さんとお母さんの喧嘩が静まったころ、今よりもっと小さかった僕は水を飲みに階段を降りた。水差しからコップに水をよそって、それを口元に運んだときのことだった。ソファーでテレビを眺めるお父さんの姿がだんだんと滲み、まるで手ブレでもしたかのように段々と二重になっていくのが見えた。僕は怖くなって「お父さん!」と声をかけてしまった。
「お、ショウタ、いたのか」
お父さんは振り向いて言った。少し疲れたような顔をしていたけど、いつものお父さんだった。二重に見えたのも、気のせいだったんだろう。そのときはそう思っていた。
お父さんは今日ついに、増えてしまった。僕だけを玄関に呼び出して、「また帰ってくるからね」と言ったお母さんの顔を思い出す。お母さんはすぐに帰ってくる。お父さんもすぐに、元に戻る。
それから1ヶ月が経った。お父さんはやっぱり二人のままで、お母さんはまだ帰って来られないみたいだった。二人のお父さんはお互いに喋ることはなかったけれど、なんだかんだうまくやっていた。お父さんと、お父さんと、僕の三人で送る普通の生活。
その日は朝から少し曇っていて、なんだか起きているのか寝ているのかわからないような、ぼんやりとした日だった。午前11時。早くに出掛けていたお父さんがカギを開ける音がして、僕は玄関に向かった。
「ただいま」
お父さんがいつもの笑顔で、手に持っている大きな袋をこちらに見せた。
「なに?」
「お母さんを、買ったんだ」
ニコニコと話すお父さんの言葉が理解できず、袋を覗く。
「木?」
袋の中身は手のひらサイズの植木鉢から生えた、小さな小さな木のようだった。
「ショウタ、ちょっとサランラップ取って」
「あ、はい」
台所からお父さんの声が聞こえてきて返事をする。お昼ごはんの準備だろう。玄関にいたお父さんは植木鉢を足元に置くと、手を洗いに洗面所に行ってしまった。
“お母さんを、買ったんだ”
サランラップを探しながらさっきの言葉を思い返す。お母さんは木なんかじゃない。木なんかじゃないけど、お父さんが満足するなら、それでいいかなあ。
その木は、その日のうちに庭に植え替えられた。お父さんに聞いたら、「大きくなったらみかんがなるぞ」だって。じゃあみかんの木じゃんって言ったら、少しだけ悲しそうな顔をされたので、もうそこには触れないことにした。あの木は、お母さんだ。
お父さんは二人とも、毎朝庭に出てお母さんに水をやった。わざわざこのためにじょうろを買ったんだ、なんてニコニコと言うから、なんだか僕も嬉しくなってしまった。お父さんがこんなふうに嬉しそうなのは、すごく久しぶりのことだから。
お母さんはみるみるうちに大きくなった。水をあげればあげるほど育っていき、あっという間にお父さんの身長くらいの高さになった。お母さんの周りには常に水溜まりがあって、頭から爪先までずぶ濡れのお母さんは少し寒そうだったけど、お父さんが満足するなら、やっぱりそれでいいかなあ。
ある朝、水やりから帰ってきたお父さんの両手には、黒っぽくて丸い何かが握られていた。
「なにそれ」
「ああ、これな、みかんがなったんだよ」
お父さんは僕に見せるようにそれをこちらに向けた。それは、真っ黒に腐ったみかんだった。
食卓に、お母さんになったみかんが並ぶ。どれも少しの差はあれど、黒っぽくてなんだかおかしな臭いがした。
「どうしようか」
「どうしようか」
お父さんが口々に僕に言葉を投げ掛ける。僕は常々思っていたことを言ってみることにした。
「水を、あげすぎなんだと思う」
目の前に座っていたお父さんたちは、少し顎を引くと、目を丸くしてこちらを見た。
「そうなのか」
「そうなのか」
「うん、だからあまり、あげない方がいいと思う」
一人のお父さんは頭をかいて、もう一人のお父さんは頬を触って「そうだな」とだけ言った。
それからお父さんは、お母さんにまったく水をあげなくなった。来る日も来る日も窓越しにお母さんを見つめては家事に戻るお父さんを、僕は宿題をしながら眺めていた。長かった梅雨も終わって本格的な夏がやってきても、お母さんには一滴の水も与えられなかった。
「ショウタ」
蝉の声がしっかりと響く朝、ガラガラと窓が開く音がして、お父さんが庭から何かを持って家に入ってきた。もう一人のお父さんは台所から、僕は食卓からそれを見た。みかんだった。みずみずしいオレンジ色をした、美味しそうなみかんだった。
「わ!すごい」
僕はそのみかんをひとつ受け取ると、顔の前に持ってきて眺めてみた。ほのかに果物の匂いがする。
お父さんたちは黙っていた。僕はそれに気がついて顔を上げると、お父さんは二人とも、手の中のみかんを見つめていた。表情が抜け落ちたような二人の顔が少し怖くて、僕はみかんを見て「おいしそうだね」とだけ言った。
次の朝、お父さんは三人になっていた。テーブルの上でカゴに入れられたみかんを、4人で黙々と食べる。みかんは見た目の通り、甘くて少し酸っぱくて、本当においしかった。「おいしいね」と言うとお父さんたちは抜け落ちたような表情のまま口の端だけを上げて「そうだな」と口々に言った。
その日の夜、畳に敷いた布団の上で天井を眺めていた。僕の右側からはすうすうと寝息が聞こえてくる。お父さんだ。4人分の布団が居間にところせましと並べられているのに、埋まっている布団は僕のところを含め二つだけ。お父さんは寝ているときだけ、一人に戻るんだ。
お父さんはいっつもいろんなことを考える人だった。「こうしようか」と僕に提案したかと思うとすぐに「いやこれもいいかもな」と悩んでいるような人。いろんな考えをたくさん持つお父さんは、三人になった今、少しだけ楽そうに見えた。右側に首を向ける。仰向けで口を少し開けて寝ているお父さんの顔が、暗闇の中ぼんやりと見える。首を左に向ける。空っぽの布団に、お母さんが寝ていることを想像する。また天井に向き直ってから目を閉じて、お父さんとお母さんの間で寝ている自分を描いてみた。お父さんはやっぱり一人がいい。お母さんは、まだ、忙しいのかな。
ガガガガと何かが擦れる音が聞こえる。これは、そうだ、一年生の時の夏休みの宿題で、貯金箱を作ったときに使ったノコギリの音だ。誰かが何かを切っている。切っている?
はっとして目を開けた。少しだけ開いた障子の向こう、みかんの木が傾いていた。
朝、一人のお父さんがお母さんを切り落とした。昼、一人のお父さんが業者を呼んで、お母さんを片付けた。夜、一人のお父さんが切り株の横で泣いていた。満月が異常なほどに大きくて、やけに明るい夜のことだった。
それからお父さんは誰一人として庭に出なくなった。季節が変わるくらい長い時間が経っても、お父さんたちは庭を見ることすらしなくなった。家の中にいてもなんだか窮屈なので、三時のおやつの時間になると僕は庭に出て、最近お気に入りのフルーツサンドを食べていた。伸び放題の庭の草と切られてしまったお母さんを眺めながらレジャーシートの上でフルーツサンドにかぶりつく。大切に育てられたみかんはただただ甘いだけだ。お母さんのみかんの方がおいしかったなあ。お母さんの切り株になんだか違和感を感じて目をこらした。あ、新芽が生えている。
秋晴れの日の夕焼けは本当にきれいでつい空を見ながら歩いてしまう。友達とさっきの角で分かれてから、ずっと上を向いて歩いていた。小さな子供がぐずる声がしてふと前を見る。背の高くて若い男の人と、僕より幼稚園生くらいの女の子、そしてその子の手を引く女の人。
僕はとっさに下を向いた。そのまま何事もなかったかのように歩く。女の人はぐずる女の子の方を見て何かを話しかけていた。僕の歩くペースが段々と早くなる。その三人は僕の横を通りすぎると、さっき僕が曲がってきた角を曲がったようだった。そっと後ろを振り返る。誰もいない。お母さん、髪、切ったんだね。
朝起きて歯磨きをしたら必ずやることがある。それはお母さんの切り株に水をやることだ。ほんのちょっとだけ顔を出していた新芽はみるみるうちに大きくなり、お母さんみたいな立派な木になった。木の周りには水溜まり。いつだって水浸しのあの女の子。
真っ黒なみかんを持って家に入ると、テーブルには三人のお父さんと、二人の僕が座っていた。僕と僕の間に僕が座る。元々三人で使っていたときは大きかったテーブルも、今では少し狭いくらいだ。ちょうどいいや、もう寂しくないね。黒くなったみかんの皮は笑っちゃうくらいにぷにぷにしてて、ちょっとだけ剥きにくかった。
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