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円滑水槽

 苦渋に満ちたその顔を男は上げられず、休息をとるためとはいえ、瓶に詰めて保存していた〈暫くの間〉を使い切ることになるとは思いもよらず。さらにと求めて手探るが、あるのは潮の香ばかり。車体は喘息持ちの子供の胸の音のように、セイセイと隙間風。
 だが、もうじきである。身体は重く両肩は下がるが、男の胸は高鳴った。焦がれた街並、人の波。陽を照り返すアスファルトと歪みを映す高層ビルの鏡窓。他を拒みつづける渋滞の大通り、そしてそれらを見渡せる歩道橋の上。
 男は踏む。全体重を踏み込むごとに交互に一方の足に掛け、小さな車輪を持った箱型三輪車で空間を噛んでいく。見える、見える。血管のように張り巡らされた線路をウミヘビのように優雅にのたうつ列車。テトラポットのフジツボよろしく押し合い圧し合い群がる屋根。
 男はすでにそこの住人の心づもりでもって、少し退屈そうな横顔で鼻の頭を撫でる。脂を拭ったその指が、横に逸れ、円を描くように頬をなぞり下唇まで達し、その厚みを勿体ぶって確かめた。と思うと、無造作に爪を立て引き千切った。
 足下のペダルは重さから解放され、三輪車は少しずつ加速しながら今、屋上のアンテナを擦める。歩行者用信号機を赤、青と見て終いには、横断歩道の白と黒にその側面を預けた。生ゴミの詰まった段ボール箱。男の入った箱型三輪車が往来の真ん中を陣取って、駆けつけた警官は、三分以内に交通整理を開始する。

——大河の三角州のごときゴミ箱は、流れ止まることを知らない人々の間に横たわったまま見えつ隠れつし、すでにこの位置からは覗けない。男からは絶えず潮の香が溢れているはずだ。しかし鼻づまりの酷い俺らには少しも感じられないのであって、立ち止まることは許されず、もし立ち止まれば待っているのは酸素吸入の停止とその先の苦しみと静寂。
 男は見世物ではない。むしろ見られるべきは。
 あらゆる疑問を確かめたいのなら、立ち止まることに因る身の危険は覚悟するべきで、俺らにはそんなふうに粗末にできる命の持ち合わせはないどころか、もし持ち合わせがあったとしても、確かめる前にあとから来る俺らに押し潰され無駄死にするのが関の山。男が一人で使い切っちまった瓶詰めがこの街の人口分ありさえすれば、立ち止まり、ふと考えることも可能だったかもしれないが。
 と、考え切らないうちに急かされ、歩みを速める。俺らの誰も男のようにはなりたくないのであって、海は遠く、潮の香はしないのだ。どうやら、鼻づまりのせいだけにはできないのかもしれない。疑問は、暇な奴だけ持つといい。


※安部公房『第四間氷期』へのオマージュ

褒められて伸びる子です。 というか、伸びたい。