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京都観光日記(長い)

東京で私が使うバスは「前乗り先払い」だが、京都のバスは「後ろ乗り後払い」だ。しかも事前両替方式でつり銭が出ない。なんとも観光客に優しくない作り。京都初日、乗ろうとしたバスの後ろの乗り口が閉められてしまったとき、運転手さんは前の降り口で渋滞を起こしている中国人らしき観光客集団の支払い対応に追われていた。私は早く乗り口を開けてくれという顔をしながらそのやりとりが終わるのを待った。
そこへ、運転手と中国人たちを仲裁する者が現れた。背中まで伸びた綺麗な白髪を三つ編みで一つに結った、瞳がブルーで白人の、70代くらいの貴婦人だった。どうやら日本語が達者のようで、中国人たちにてきぱきと支払方法を伝授し終えると、今度は私を見て「乗るのは後ろからよ」と言った。
「はい、でも閉まっちゃったので」と私が答えると、さっと乗り口に回り、慣れた手つきでインターフォンを押し「乗りまーす」と言いながら閉まったドアをバンバン叩いた。この動きは明らかに常日頃から観光客を捌いている現地人のそれだ。長いこと京都に住んでいるのだろう。
乗り口が開き、お礼を言ったが、降り口で中国人たちがごたついておりなかなか発車しそうにない。「チャイニーズには何言ってもダメね」と貴婦人。それはかなりの差別的発言だと思いながら「大変ですよね〜」と私。大変ですよね〜には運転手さんも観光客の相手をする現地の方もね、という気持ちを込めた。もう一度貴婦人にお礼をして握手をし、バスは出発した。
素敵な方だった。年齢で言えばご老人なのだが、お召し物も綺麗で品があって、背筋なんかまっすぐだった。いい人だったし、何よりまず居住地に日本・京都を選んだそのセンスに感服である(どのような事情で住んでるかは知らんけど)。

京都で見た観光客の半分かそれ以上は、外国人だった。私は滞在した2日間は平日だったが、紅葉シーズンとあらばそんなことは関係ない。メジャーな場所であればあるほど、すれ違う人は外人だらけ、聞こえてくるのは英語、中国語、韓国語、たまにヨーロッパの言語と、あとは私が聞いても判別のつかないアジア諸国のことば。日本語が聞こえると安心すらした。大好きな京都の地にいるのに私はどこか落ち着かない気持ちになるのだった。

東京でも最近そんな思いをしたことを思い出す。久しぶりに原宿の竹下口に出てみた日、私は外国人のボリューム感に圧倒されて泣きそうになった(この時は睡眠不足と空腹と疲労感でもともと泣きそうだったからしょうがない)。何か食べ物をと思って入った竹下通りのコンビニも、マツキヨも、店員はみんなアジア人。店内では外人が外人を接客している。何かを大声で喚いている夫婦、泣く子走る子、それを静止する人、全員外人。ここが本当に日本なのかよ。私はコンビニで買ったプロテインバーをかじりながらこの国の将来を憂いた。

ここで誤解があっては困るのだが、私はインバウンド推進派だ。そもそも人口激減の中で日本国内の市場は縮むしかないから、海外をマーケットにするしか方法はないのだ。日本の素晴らしさを国外の人に知ってほしい!みんな遊びに来てほしい!とも心より思っている。もちろん右翼的な偏った思想は持っていない、そんな私が、本能的なレベルで「これは侵略だ」と感じてしまったのだ(まあ四方八方で知らん言語を話されたら不安にもなるだろう、英語ならまだしも)。そしてその侵略こそがグローバル化なのだと感じた。なるほど確かに世界は恐ろしいほど狭くなったようだ。(でも原宿で中国人に接客される中国人は、一体何をしに原宿に来ているのだろうか?それ日本でやる必要なくない?)

インバウンドの波は止められないし、止めるわけにもいかない。(市場規模)でもそれによって現地の人たちの生活が脅かされるのはどうなんだろうか。バスの運転手さんもお寺の誘導の人も出店の店員さんも、思い通りにいかない異文化コミュニケーション(それも膨大な人数を相手どる)にややストレスを抱いているようだった。一般の方にとっても、公共の交通機関が土日平日時間帯関係なく言葉の通じない観光客で埋め尽くされたのでは、たまったものではないだろうと思ってしまう。それが年中、毎日毎日のことだとしたら、観光地で暮らす現地の人々の暮らしは守られているのだろうか。

東京の人は冷たい、と言われる。私は生まれも育ちも東京なので知らんがな勝手に言ってろと思っているが、「田舎=優しくて温かい」「東京=冷たい」の図式はなんとなく理解できる。しかし東京で暮らす人の半分以上とか(割合は忘れた)は地方出身者だ。東京を冷たくしているのは地方出身者で、そこには「どうせここは自分のホームじゃないから」という心情が働いているという(私も100年先までこの地球にいるわけじゃないしと思いながら環境問題を無視しているので、同じ心理ですよね)。その心理が海外からの観光客にも働くとしたらどうだろう。異国の地で気の大きくなった外国人の中には、マナーがよろしくない人たちも少なくない。減る一方の日本人に対して増えていく外国人。確かに右翼が黙ってないはずである。

日本はどうなってしまうんだろう。まあ、寺の売店に「CLOSED」と英字が並び、石庭・枯山水で外人がはしゃいでいる時点ですでに侘び寂びとは?っつー話ではある、冷静に、なにがやねんと、どないやねんと思ってしまう。侘びて寂びろと、和紙に達筆で「閉店」、それがJAPANやんと思ってしまう、が、このご時世そういうわけにはいかないのだ、日本が閉じた島国だった時代はもう戻らないのだ。(そもそも観光業と侘び寂びは相容れないとは思うがそれ以前に)「日本風」「和風」は侵略し侵略されグローバリズムの中で進化した、ヘレニズム文化のようなものなのだ。そう考えればなるほど納得、異文化同士は接すると互いに変容せざるを得ない、それが世界史である。

グローバライゼーションのおかげで、有形文化財である船岡温泉(という名の銭湯)の露天風呂に、中国人と白人と日本人が混浴することができる。これはこれでまた一興である。ただ、それにはそれなりの迎える側の準備が必要なのではないだろうか、さもないと拮抗がとれずにただ侵略されることになってしまうのではないか、と思うのは杞憂だろうか。京都に関しては、もはや世界的な観光地になっちゃったんだし現地の人たちはもうちょっと英語できたほうがいいのでは?とは思った。それだけで異文化コミュニケーション、だいぶ楽になるので…

到着した北野天満宮では、先ほどの老貴婦人(マダム・メアリと名付けた)の健康とご武運を祈った。

***

私は歩いた。石畳の京都の町を、寺と紅葉を巡って歩いた。バス移動は最低限にとどめ、できる限り歩いた。それには痩せたかったのもあるが、京都の町を歩いて自分の足で体感したかったのもある。あとはやはり痩せたかったのもあるので「背筋を伸ばして腕を振り、たくさん歩く」のが旅のテーマでもあった。痩せたい。私は痩せたいのだ———つい勇み足になり(?)サカサカ歩いた結果、2日間で60,000歩を踏破、足を痛めた。正式には40,000歩目あたりで痛めたことに気付いた。調べたところ足底腱膜炎らしかった。

完全に厳しい。まだまだ歩いて行こうと思っていた寺が残っている…しかしここで選手生命が絶たれてしまっては元も子もない、大事をとって積極的なバス移動にシフトしよう———そう思って向かった矢先の毘沙門堂門跡、最寄りの山科駅から徒歩16分!!!「…もつだろうか この体で」という心中文が思わず頭に浮かんだ(バナナフィッシュにはまっている 別記事参照)。しかしタクシーを使うなど言語道断、許されなかった。私は足を引きずり歩き続けた。(下図の顔で歩いた)

京都・寺といえばWABISABI、季節を彩る草木、そしてお年寄りの芳しい加齢臭である。寺にはお年寄りが多い気がするが、彼らはタクシーを乗り回して寺を訪れる。そんなの全然楽しくない(酔うし)。筋トレにも精を出すピチピチの25歳の足でさえ炎症を起こすのだ、若者に「若いうちにしか行けない場所に行け」とインドを進めている場合ではない、若いうちに行けないのはインドだけではない。「ヨーロッパなんて年取ってからも行けるわよ」ではない、行けない。どこに行くにしろ高齢者に旅行はきつい!圧倒的真理。
お年寄りの方たちは休憩をとりながら歩みを進めていたが、私のペースの寺巡りでも一日に7箇所程度が限界だった、年寄りに旅行はできても、あちこち回るのなんて無理だ。なんてことだ!やはり人生は短すぎる(年をとると、もはやあちこち回りたいというもんでもなくなるのかもしれないが)…

だからと言ってはなんだが、私は行けるときに行ける限り、旅行がしたいと考えている。見知らぬ土地に見知らぬ文化と風景とローカルルールがあり、有象無象の人が生きている。それは自分で出向かなければ出会えないものたちで、吸えない空気だ。旅行はフィールドワークの一種と言えよう。ネットで素敵な写真は見れるし、東京にはどんな地域の料理屋もある、それでも私がどこかに行きたいと思うのは、その土地を自身で踏んで歩きたいと思うからだ。ネットでの情報収集はフィールドワーク前の調査には使えるけど、リアルではない。デジタルはアナログを超えられない。アナログはなくならない、なぜなら今日においても文化人類学者たちは、世界各国の現地でフィールドワークに勤しんでいるからである。それがリアルで、自分の目で見る真実だからである。百聞は一見に如かずなのである。

そもそも私が秋の京都を訪れた目的は、真っ赤な紅葉を見つけることだった。黄色いイチョウでなければグラデーションのモミジでもない、一面の紅色が見たかった、が、今年は災害の影響もあり行った時期が少し早かったのもあり、叶わないと知っていた。

今回一面の紅は見られなかったがしかし、奇跡的にとても綺麗なモミジの木を一本見つけることができた。仁和寺で誰にも注目されずに隅に佇んでいた、このもみじくん(命名した、加工なし)である。


奇跡的だったのは①台風で傷んだ葉だらけの木が多い中、比較的綺麗な葉が残っていたこと、②たまたま私が仁和寺についたタイミングで天気雨が一瞬降り、その比較的綺麗な葉の落ちたての状態を拾えたこと、さらに言うなら③その一瞬の天気雨で五重の塔に虹がかかったのが見られたこと、である。私はこのもみじくんの紅さに一目惚れして、押し葉にして持って帰ってくることに成功した。

東京に帰ってきてからデータ化したので多少は変色してしまったが、私はこのもみじくんをデジタルに閉じ込めることで永遠に手に入れることができた。嬉しい。しかし同時に、実際に押し葉にしてとっておいている本物の、アナログのもみじくんはもっと綺麗だ。その浮き出た葉脈に触ることもできる。データは無機物だが、私の拾ってきたもみじくんは限りある有機物だ。
だから、デジタルはアナログを超えられない。時を止めて閉じ込めたもみじくんのデータは偽物だ。デジタルなんて触れることのできない彼女みたいなものだ、食べることのできないラーメンみたいなものだ、どれだけ技術が発達したって人間は絶対に有機物を求めるに違いないのだ。便利な世の中を追求するのはもちろん技術者の皆さんにどんどんお任せしたいが、私たちの本来のアナログさを失うのはまっぴらごめんなのである。少なくとも私は。

私が訪れて見た限りでは、仁和寺で出会ったこのもみじくんが葉っぱの状態的にも色づき方にしても、最も美しかった。でももみじくんの写真を撮っていたのは私の他にはおっさん一人だけだった。多くの人は、葉だけ見たら大して綺麗とは言えないような紅葉の、有名な角度での映えショットを撮るためにシャッターを切り続けていたけど、もみじくんを超える美しさの紅葉に出会うことはなかった。それでも有名スポットの少しでもいい写真を撮ろうと、人は拝観チケット購入のための列に並ぶ。マーケティング、ブランディングの力と重要さを改めて感じたりなどした。広告業界からは引退したけどマーケの仕事とかはやっぱ楽しいだろうな。

私はいよいよ死んだ足を引きずって関西ローカルチェーンの有喜屋に入り、有喜そばを食べた。全卵と納豆がフワフワで、エネルギ〜という感じ。お蕎麦が本当に美味。
たっぷり休養をとり、ヨボヨボになった足を休めてからまた次の目的地へと歩き出したのであった。押し葉となったもみじくんと共に(to be continued)

***

京都最終日(つって2日目)、日も暮れ、そろそろこれが最後のお寺。選んだのは「もみじの永観堂」の夜間ライトアップである。ちなみに依然として足は引きずっている。
蹴上という駅から歩いて向かう途中、東山学園の横を通る。軽音部の部室が道に面しているのだろう、軽快なドラムの音がノレる程度の音量で音漏れしてきた。私はドラムをやってみたいとかねてより思っていたので、リマインドありがとうと思いながら永観堂へ足を早めた(とは言え引きずっている)。
この旅最後のお寺ということで、お賽銭箱に100円を投げ入れてしっかりしっかり参った。まずは「いつもありがとうございます、今のところ無事です」をお伝えして、「私の身と、大切な人たちの身をお護りください」をお伝えした。これは私の最近の傾向・ライフハックだが、幸せを要求する前にまず安全・健康をお願いするようにしている。なぜなら人はいつどうなるか分からない、案外呆気なく死んでしまうからだ。死ななくても、いつ危険に晒されるかわからない。そのことが近頃身に染みて感じられる。

「こないだ友達が死んだ」「先輩が死んだ」結婚報告の100分の1程度の頻度にはなるが、よく聞く。ツアー添乗員として勤め日々空を飛んでいた私の友達の乗った飛行機が、すんでのところで墜落しかけた。同じ発着地の別の便は墜落したらしい。新幹線で人が刺された事件があってから、車内の見回りが増えた。それでも隣の席の人がいつ急に切りつけてくるかは分からない。自分がどれだけ気をつけて運転していても、高齢者の運転する逆走車が正面衝突してきたら死ぬだろう。


船岡温泉の近くの、銭湯をリノベした素敵カフェ「さらさ西陣」で休憩した時、初めてそれと意識して岡崎京子の作品を読んだ。ご存知の方の方が多いだろうが、岡崎京子は80-90年頃に時代を代表する作家と絶賛された方だ。そんな最も勢いのあった時期に飲酒運転の車に撥ねられてからというもの、現在に至るまで休筆している。事故で頭部は損傷し、一時は危篤状態になっていたという。


酷すぎる運命、ファンは誰しも「なんで岡崎京子だったのか」と問うただろう。とりたててファンではない私でも思う。表現者を潰すなと思う。私の世界の中では表現者が最も偉い、医者は命を救うけど表現者は心を救うから。表現者は新しい選択肢を、思想を、脳みそのシワを与えてくれる存在だから。クリエイターが私の精神世界のトップにいる(もちろん理系の皆さんは医師となり命を助けてください)。ただ落合陽一の話になった時、エンジニアの友達に「彼はメディアアーティストとして、エンジニアリングを土台としたものの上に作品を作ってるだけだから。彼自身はコーディング自体に明るいわけではない。その基になってるエンジニアたちこそ正当な評価を受けるべき」みたいなことを言われた。皆さん、エンジニアを評価してあげてください。私は落合さんもなかなかすごいと思うけど(別に好きではないが)まあ立場によっていろいろあるわよね。

今平然と生きているけど、いつ何が起きるかは分からないと思う。だからきっと親や恋人は「もしかしたら」「何かあったらどうしよう」と心配するのだ。小学生の時、家族で行った市民プールで黙って一人で行動してみんなからはぐれた時、母は泣いていた。今なら分かる。大事な人が、生まれて何事もなく無事でいられるのは奇跡で、それを脅かす可能性のあるものを敏感に警戒してしまうこと、たとえ当の本人が「何もあるわけない」と言ったとしても、事実として「何もあるわけないとは言えない」のだ、生きている限り。この年になったから分かる。子は産んでないけど分かる。私には人並み外れた想像力と共感力がある。

人生ただでさえ短いというのに、いつ何が自分の身に起こるか分からない。永観堂帰りに東山学園を通り過ぎた際、絶対にドラムを習うぞと心に決めた。いつかそのうちなんて言っていられない、私のこの世界が安全で自由である時間はそう長くない。やると決めたことは早くやってしまうのだ。キメの問題だ。そのうちやるぞーと思ってなんの理由もなく今やらないことなんて、ただ優先順位が低いというそれだけのことなので、いっそ諦めてしまった方がいい。

***

そして帰宅。京都はグローバル・シティになったけど、相変わらず私のお気に入りの場所だ。だからどうにか工夫して観光業も頑張ってほしいと思う。でも来年の紅葉は鎌倉とかにしよっかな…

(こうやってものを考えることができるので一人で行動するのは結構好き。今回は考えたことを意図的にメモしといたのでまとめてみたら、思ったより長くなってきもい)

最後に最近出会ったなるほどセンテンス
「事実は変えられないけど、事実に対する態度は変えることができる」
自分以外のことは変えられなくても自分は変われる。かつ、カントに言わせるとそこに事物があるのではなく、事物を認識する自分があるだけなので、自分の認識を改めたらおそらく見える世界全体が変わるのだろう。それを刷新していくためだけに私は生きていける。



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