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決戦! 長篠の戦い その32

前回取り上げた引用文の中で渡邊恒雄氏が登場したが、偶然にも記事を公開したその日の夜にNHKで渡邊恒雄氏へのインタビュー番組が放送された。
戦争体験者として語る政治と戦争についての話であったが、いかに軍部で酷い扱いを受けたか、暴力を受けたかについて語られ、戦争とは嫌なものだと思わされた。実際には軍部以外の場所でも、女子供が敵から暴力や性暴力の被害にあったことだろう。そして、渡邊氏は、戦争を体験した政治家達はそのつらい体験ゆえに、どんな政治をすべきか分かっているが、今の政治家や国民は戦後生まれなので国会でも政治に行き詰っていると言っていた。渡邊恒雄氏については番組の最初では右寄りの人であるとの印象を持っていたのだが、やはり戦争体験とは悲惨なものだ。政治家や私たちの祖父母についても同様であるが、戦争を体験した人というのはその体験をあまり語りたがらないし、悲惨であることを知っているから正しい道に進むことができる。
では、現在の戦争を知らない世代はどうすれば良いのか。そんなことも考えさせられた番組であったが、私なりには以下のことを思っている。

①現在でも武力もしくはハッキング、情報操作、印象操作によって虎視眈々と日本侵略を狙っている外国勢は存在するのだから、世界は平和なのだと錯覚してはならない。
②日本の過去の外国との戦争について、反省すべきところは反省し、過ちを繰り返さないようにすべきだが、日本のために戦った人達がいたことも確かだ。自分たちの行ないは棚に上げて、誤った歴史認識で言いがかりをしてくる外国には毅然として立ち向かい、日本人としての自尊心を失ってはならない。
③日本は唯一の被爆国であり、一応は先進国でもあるのだから二度と戦争が起きないように努めなければならない。引き続き戦争の悲惨さを映像や資料で世界に発信する義務があるだろう。
④新しい仕組みやネットワークを各国と創造し、世界の安全と共存、発展に積極的に関与しなければならない。

現在の政治では憲法9条の改正について問題となっているが、私は必要であるとも思うが、同時に危険であるとも思う。日本の国は日本人で守りたいと思う一方で、憲法が軍隊を持てる法律に変更になってしまうと、日本は再度同じ過ちを繰り返すのではないかと危惧する。日本人の国民性、その気質はそう簡単に変わらないだろう。追いつめられれば玉砕覚悟の戦いを挑むのではないだろうか。そのあたりが心配だ。
民間人と戦闘員がきれいに分かれて戦争などできるだろうか。ひとたび身内に犠牲が出れば、その怒りや恨みが相手が死ぬまで相手に襲いかかるのではないだろうか。
そんなことを考えさせられた。

さて、今回は勝頼の父、武田信玄についての記述をみていきたい。最後は、やはり武田信玄で締めることになるのだなぁ。そもそも私が興味を惹かれたのは長篠の戦いであり、信玄亡き後の武田家を継いだ武田勝頼であった。織田信長の視点から長篠の戦いを語っていたら、このシリーズも数回で終わっていただろう。信玄については有名なので、誰もが知っているような内容をわざわざ記事にする意欲もないので、「武田信玄」を題名の一部に含めている小説や研究書は扱わない。そのため少し長くなるが、今回は井沢氏の「逆説の日本史」から信玄について説明している文章を紹介したい。

書名:逆説の日本史9  戦国野望編-鉄砲伝来と倭寇の謎
作者:井沢元彦
初版:2005年6月1日
※引用個所は『 』で表示。( )の文章も引用内の文章である。

本当に実力主義だったのは織田家だけ

『天下を取るということは、多国籍企業の発展のようなものだ。ところが本当の意味での多国籍企業は、信長の織田家だけだ。信長の本国尾張(愛知県西部)出身以外でも、明智光秀(美濃国出身)、滝川一益(近江国出身)は重役になれた。秀吉は尾張出身だが下層階級の出身である。そんな身分の出身でも実力さえあれば重役になれるのが、織田家なのである。
信玄の武田家は、こう書けばおわかりのように、同族会社なのである。
同族会社にとって一番大切なことは何か?
それは実は会社が発展することではない。いや、正確に言えば、会社が発展するのはいいのだが、それはあくまで同族が支配権を確保した状態でなければ意味がない。別な言い方をすれば「井沢産業」は、あくまで井沢一族の繁栄のためにあるので、いくら会社が大きくなっても他人に乗っ取られたらなんにもならない、ということでもある。
では、どうすればいいか?
同族会社の経営のコツ(?)は、たとえばセールスマンや技術者のような職種では大いに実力主義をとり、優秀な人材を迎え入れる。また優秀な技術やノウハウを持つ中小企業は吸収するか傘下に組み入れる(真田家など国人クラスがこれにあたる)。だが、決して経営陣には入れてはならない、ということになる。当たり前の話だが、優秀な人材であればあるほど、うっかり経営陣に入れてしまえば、会社自体を乗っ取られる危険性がある。だから、同族会社では決してそんなことはしてはならないのだ。
山本勘助が足軽大将に過ぎないということは、まさにそういうことなのである。優秀な人材は決して経営陣にいれない「同族会社」と、出身や身分は一切問わずに実力さえあれば重役ににもなれる「多国籍企業」と、どちらが発展するか?
答えは書くまでもないだろう。
ただし、ここがまた歴史の面白さでもあるのだが、天下を取るのに信玄と信長のどちらの方法が優れていたかということと、それに対する後世の評価はまた別物なのである。山本勘助は江戸時代は「軍学の神様」であったが明治以降はその実在すら疑われた。楠木正成は戦前知らない人はいないというほどの「有名人」だったが、今の若い人はその名も知らない人が少なくない。同じように、現代でこそ織田信長はブームになるほどの有名人だが、江戸時代での人気はさほどでもなかった。その理由は、彼が苦心して築き上げた「織田コンツェルン」が、信長自身が「常務」の明智光秀に殺されることにより、「専務」の豊臣秀吉に乗っ取られてしまったからだ。
日本は、「家」という「同族会社」の国である。
天皇家という「持株会社」があり、実際の経営は将軍家という「同族会社」が取り仕切っている。五摂家(関白家)や本願寺という「同族会社」もある。そして江戸時代とは三百近い大名家という「同族会社」が、徳川将軍家を盟主として仰いでいる状態だ。いわば「同族会社集合体」ともいうべき状況の中で、お手本とすべき大名は誰か?
明らかに織田信長ではない。彼は、「織田コンツェルン」を子孫にうまく継がせることはできなかった。それは本能寺の変で、信長のみならず後継者に指名されていた長男信忠が共に殺されてしまったという不運もあったのだが、もとはといえば明智光秀などという他国者を重役なんかに抜擢するからだ、つまり経営者失格だというのが大名つまり「同族会社の経営者」の感想であったに違いない。
ちなみに江戸幕府を開いた徳川家康も、若い頃から織田信長の同盟者として、むしろ「弟分」として近くにいたのに、信長の死後は武田信玄を手本にすることが多かったのは、家康自身もそういう立場だからだ。』
------------------------------------------------------------------------------------ここで少し話が少し横道にそれるが、上記の最後の部分「家康は武田信玄を手本にすることが多かった」に関連する文章を同書から紹介したい。家康は信玄を尊敬していた。それによって江戸時代には名軍師なのに語られることが無かった人物がいた。

『後世の人間の都合といえば、もう一つある。実は、勘助には悪いが、日本の戦国時代にはまさに諸葛孔明をほうふつとさせるような、軍師の名にふさわしい戦国武将が他にいたのである。
その男の名を竹中半兵衛重治(しげはる)という。半兵衛は美濃国(岐阜県)出身で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の武将となって、その天下統一を助けた男である。その功績はまさに参謀としてのもので、日本の戦国武将の中で最も「軍師」という言葉に近い男といえる。では、竹中流軍学が起こり、半兵衛が日本の名軍師として語られてもよさそうなものなのに、なぜそうならなかったのか?それは半兵衛の主人が秀吉だったからである。江戸時代徳川政権において、秀吉の業績を語ることはタブーであった。もちろん、庶民には人気があったのだが、武士階級の間では、豊臣家は徳川将軍家の敵であった「悪」なのである。したがって、その「名軍師」である竹中半兵衛をほめそやすことが出来なかったのだ。
だが、幕府の祖徳川家康は信玄を尊敬していた。自分の腹心である井伊直政に武田家遺臣を大量に採用させ「赤備(そな)え(ヨロイの色がすべて赤)」の部隊を作ったのも、武田家の軍法を採用したのも、家康の意向があってのことだ。だからこそ、信玄の部下であった山本勘助の方が、日本の代表的軍師ということになったのである。
これが後世の都合ということである。
もし、豊臣家の天下が続いていたら、信玄の軍法など「負け組」のものとされ、山本勘助にスポットライトがあたることも無かっただろう。人間は生きている間だけでなく、死後の評価についても運不運がある。勘助もずっと幸運だったわけではない。むしろ明治以降は、実在を否定されるほど不運なのである。真の歴史研究とは、後世の都合で勝手に人物評価を変えないということであろう。』
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ちなみに、私は家康は信玄を尊敬していたからこそ、三方ヶ原の戦いでも浜松城を素通りする信玄に対して「バカにされた!」と怒り家臣の反対を押し切って籠城戦から打って出る戦いに切り替え、その結果大敗したし、長篠の戦いでも徳川軍だけは柵から出て勇猛果敢に武田軍と戦ったと考えていた。通説ではそのような見方があると思うのだが、しかし、三方ヶ原の戦いに限ってはそうではないとする説もあるようだ。参考に下記にリンクを貼っておく。通説とは違っていたとしても、それはそれで人間らしさがあって親近感がわく。やはり昔の人も現代人と同じように、どうしようもない人間なのだと実感するではないか。

さて、話を元に戻そう。引き続きさきほどの上記の引用個所の続きから。

『後に家康は幕府のトップとして、厳しい戦乱を生き残った信長の孫たちを大名に取り立て、領地を与えている。それはたとえば出羽国天童藩(山形県天童市)などがそれだが石高は二万石程度で大名としては最低クラスである。信長のもう一人の「弟分」前田利家の加賀前田家は百万石だ。家康は「あーあ、信長の代には数百万石あったのにな」と、感慨を抱いたはずだ。だから江戸時代という「同族会社の時代」においては、信長の評価は低い。逆に「多国籍企業の時代」においては信長の評価は高くなるのである。そしてこう考えてくれば、「信玄があと十年生きていたら———」という、言わば「過大評価」は、江戸時代の評価が残像のように残っているからだ、ということがおわかりになって頂けると思う。
そして、そういう錯覚を抱くのには他にも理由がある。それは、われわれが歴史を結果から見るからだ。このことは何度も言ったが、なかなか理解して頂けないことなので、もっとわかりやすく言おう。ここに、パズルやクイズを集めた本があるとする。そういう本は、常識的に問題と答えが別のページに書いてある。問題と答えを同じページに、それも活字をさかさまにするならともかく、並べて書くようなバカなことはしないだろう。
たとえば———

<問> 室町幕府の第三代将軍は誰?
<答> 足利義満です。

こんな形で印刷されていたら、誰でも「もうちょっと工夫しろよ。これじゃ面白くもなんともない」と不平の一つも言うだろう。
ところが、歴史の本とはすべてこれなのである。
たとえば———

<問> 戦国日本を統一したのは誰?
<答> 足軽出身の豊臣秀吉です。

ここで失われるものは何か?
思考力である。推理、洞察力といってもいい。答えを伏せておけば、もうちょっと頭を使うものを、こんな書き方では「暗記課目」ということになってしまう。「そんなこと言ったって、これは一つの知識であって、豊臣秀吉という固有名詞を知らなければ、どうしようもないではないか」という反論は、一見正しそうだが実は間違っている。確かに「豊臣秀吉」という固有名詞は知らなければわからない。しかし、かつて日本にはこういう時代があったが、それはどのように収拾されたでしょうか?という問い方をすれば、中学生あたりでも自分の考えを述べることはできるだろう。そして、そういう習慣が身につけば、それはあらゆる学問に応用できるはずだ。
幕末の志士吉田松陰は松下村塾(しょうかそんじゅく)で少年たちに日本史を教えるにあたって、当時のベストセラーであった頼山陽(らいさんよう)の『日本外史』を用いた。これは通史であるから古代から始まっている。しかし、松陰はこう言ったのである。「われわれは毛利家の家来だ。だから関ヶ原からやろう。君ならどうする?」
今、歴史教育の中で最も忘れられているのが、この方法かもしれない。よく日本人は「相手の立場になって考えなさい」と言うが、たまには歴史でもそれを試みてみるといい。そうすれば「明智光秀は室町将軍家再興を目指したから守旧派だ」などという見方が、錯覚であり偏見であることがわかるはずだ。光秀の方法は当時の常識であり、信長の方が「非常識」なのである。
ここで話を再び信玄に戻そう。
様々な条件を考え合わせると、信玄が信長にとって代わるという歴史上の可能性はほとんどゼロに近いことが、わかって頂けたと思う。しかし、それならそれで、なぜ信玄という男はかくも偉大な存在として語られているのか?それはすべて後世の錯覚と言い切っていいのだろうか?

「平成の高橋是清」と自惚れている政治家よ、信玄の経済政策を知れ

今日(こんにち)でも武田信玄の地元甲斐では、「信玄」などと呼び捨てにはしない。信玄公である。そしてJR甲府駅の駅前広場には信玄の銅像が立っている。これはどうも「観光資源」というものとは違うようだ。もちろん、その意味合いも無いではないが。あの皮肉屋の勝海舟が、こう言っている。

日本国中で、古来民政のよく行き届いた処は、まず甲州(山梨)と、尾州(愛知)と、小田原(神奈川)との三か所だろうよ。(武田)信玄や、(織田)信長や、(北条)早雲の遺徳は、まだこの三か所の人民に慕われているらしい。
(『氷川清話』角川書店 カッコ内、引用者 註)

また、信玄の政治については、次のように褒めている。

信玄が、ただの武将ではなかったことは、ひとたび甲州(山梨)に行けばすぐにわかる。見なさい、かの地の人は、今でも信玄を神として信仰しているのだ。これは当時民政がよくゆき届いて、人民が心服していた証拠ではないか。その兵法のごときも、規律あり節制ある当今の西洋流と少しも違わない。近ごろまで八王子に、信玄当時の槍法がのこっていて、(中略)敵に近づくと、一斉に槍先をそろえて敵陣に突貫するのだ。
ちょっと見たところでは、はなはだうかつのようだが、おれは後で西洋の操練を習ったから、始めてこの法のすこぶる実用にかなっていることを知った。また、そろいの赤具足をその将士に着せて、敵の目を奪い、かねて味方の士気を鼓舞したのなどは、大いに今日の西洋ふうにかなっているところがある。これが実に信玄の遺法であって、後世、井伊家の特色となったものだ。
(引用前掲書)

確かに、チームがユニホームを統一して連帯感を高めることは、実は日本では(古代の兵制を除けば)信玄の創始したことなのである。では、信玄の民政は何が良かったか?
もちろん、年貢(税金)が安かったことがある。今の政府も政治家もわかっていないことは、減税(あるいは低い税率)こそ、民を活性化し、結果的に国を栄えさせる最大の要因だということだ。
勝海舟は信長の政治については次のように評している。

信長という男は、さすがに天下に大望をもっていただけあって、民政の事には、深く意を用いて、租税を軽うし、民力を養い、大いに武を天下に用うるだけの実力をたくわえたとみえる。(引用前掲書 傍点引用者)

信玄も信長も、天下を取るために軍備を最大限に拡張した。しかし、民に重税を課してそれをまかなうという発想はまったくなかった。これは信玄の後継者勝頼のところでも触れるつもりだが、そんなことをしても結局民が疲弊し、その支持を失うだけなのである。「平成の高橋是清」などと呼ばれて悦に入っている政治家がいる。この人は自分が最高に頭のいいエリートだと思っているらしい。確かに、経済学の用語や理論の名前なら、この人は私の百倍も知っているだろう。だが、経済と政治における最も肝心なことがわかっていない。それは今も昔も、善政とは減税のことだ、ということである。
少なくとも、信玄、信長、早雲の三人は(まだ他にもいるが)、それを知っていた。勝海舟が評価しているのも、まさにそこなのである。
では、信玄の経済政策とは具体的には一体どんなものなのか?それは一言で言えば農業土木の活用である。
農業土木とは「農業の土地および労働の生産性を高め、農用地の保全上の能力を高めるための土木をいう。すなわち、土木的手段を用いて既耕地および未耕地の土地の利用価値を永続的に高めるもので、開墾、干拓、灌漑(かんがい)、排水、床締めや客土などの土層改良などの土地改良を一括している」(『大百科事典』平凡社刊)という技術である。
もちろん、これは世界四大文明の頃からあった技術だが、それが特に発達したのが日本であり、その日本の中で最もこの技術に優れていたのが戦国時代の甲斐国なのである。
甲斐とは本来「峡(かい)」と書いたらしい。峡とは「両側に山の迫っている所。山と山の間」(『大辞泉』小学刊)という場所だ。通常ならば、広大な水田が作れるような場所ではない。水害にも頻繁に襲われることになる。洪水や山崩れである。そうした災害から国土を守り、併わせて農業生産力の拡大をはかる技術こそ、農業土木であった。

そして、甲斐はこうした悪い条件下にあったがゆえに、かえって技術は発達したのである。複雑な地形をいかに克服して、より多くの田畑を作るか。そして、その田畑や民家が水害を受けないように、いかにして守るか?これこそ、信玄の最大の政治課題でもあった。そして、その目標を信玄は見事に達成したのである。
その成果の一つに、信玄堤がある。信玄の築いた堤防だ。たとえば将棋の駒のような形の土塁を設け、鋭い先端部で水を分流させたり、雨を含んで激流となった川の勢いを止めるために、わざわざ絶壁に誘導してぶつけたり、治水のために、ありとあらゆる工夫がなされている。
ちなみに外国ではこれを訳さずに「nougyoudoboku」で、そのまま通じるそうだ。
実は日本は明治になって近代的学問体系ができた時には、まだその価値を知らなかった。諸外国と比較して初めて、日本の技術がいかに優れているか知ったのである。余談だが、この農業土木の講座を日本で初めて開いた人は上野英三郎という。あの渋谷の忠犬ハチ公の飼い主である。日本は複雑な地形の国だ。だからこそ、農業土木が発達したともいえる。エジプトやメソポタミアのような広大な平地では、ポンプのような技術は必要かもしれないが、複雑な構築物は必要ない。しかし、日本はその逆である。水をいかに得るかということよりも、いかに水を制御するか、つまり治水の技術の方がはるかに重要だったのだ。
戦国時代、特に信玄の時代の甲斐国は、この技術の発達によって、農業生産力が拡大した。食糧の増産それは人口の増加とイコールである。生産性の低い地域では、「間引き」などという人口調整を行なわざるを得なかったが、新田開発のおかげで、それは無くなる。増えた人口は新たな「国力」となる。また、それまで洪水に悩まされていた地域が、優秀な堤防のおかでげその不安から解放される。
「おまえを殺さずに育てることができたのは御領主様のおかげだ、決して足を向けて寝ちゃならねえ」ということにもなる。すなわち「かの地の人は、今でも信玄を神として信仰しているのだ」ということになるわけだ。したがって、信玄いや信玄公に対して、批判がましいことを言うのは、もってのほかだ、ということにもなるのである。しかも、この信玄自慢の農業土木はもう一つ甲斐国に大きな副産物をもたらした。
金鉱である。
甲斐は山国だから産物に乏しい。ところが、天からの贈り物ともいうべき金が大量に発見された。ただ、いくら金が発見されたとはいえ、それを大量に掘り出すためには、土木技術が不可欠である。鉱道を掘るのも、その鉱道が落盤しないように支えるのも、ガスがたまらないように空気抜きの穴を造るのも、優秀な土木技術がなければ話にならない。信玄は幸運にも、自分の治世においてゴールドラッシュに恵まれた。それは単なる偶然ではなく、当時「山師」と呼ばれた鉱山技術者を優遇し、積極的に金山の開発につとめたためである。
戦国時代の中で、名将と呼ばれる人物には、実は一つ共通点があるのだが、おわかりだろうか?武田信玄、上杉謙信、毛利元就、北条氏康、今川義元———この五人に共通するものと言ってもいい。それは、全員、金山(銀山)を持っているということなのだ。名将の条件とは、戦争に強いこと、と答える人が多い。確かに間違いではないのだが、単に戦争に強いというだけなら、関東の武将長野業政(なりまさ)は信玄に負けたことがないし、真田幸隆の子昌幸も関ヶ原の戦いの際に、わずかな手勢で徳川軍四万と戦い、一歩もひけをとらなかった。
しかし、長野業政や真田昌幸は戦争に強い武将と呼ばれても、名将とは呼ばれてない。やはり、スケールが小さいのである。国人クラスだからしょうがないじゃないか、という弁護論は成り立たない。なぜなら毛利元就だって初めはそうだったのだから。戦争とは巨大な投資である。勝てば新しい領土や利権を獲得できるが、負ければ何もかも失う危険性がある。だからこそ、それをやるには余程の経済力がないと無理なのだ。だから名将の条件には「財力がある」ということがあり、金山を持っている武将が歴史に名を残しているのは、そういう理由がある。
信玄は農業土木を活用した余剰生産力と、甲州金の力で天下に名乗りを上げたのだ。この意味で、信玄は農業政権の最大最長の雄である。信長は金山を持っていないという点にも御注目願いたい。それなのになぜ勝者となれたかというと、金鉱以外の別の財源を持っていたからである。』

以上、武田信玄についてみてきた。これも信玄のほんの一部の説明にしかならないが、信玄が農業を守るため治水を行なったこと、農業土木が発達したことが分かる。
そして、国として経済や都市の発達も必要かもしれないが、同時に日本の農業を守っていくことも必要だろう。最近は農業の担い手が減っているという。私は農業に携わったことはないが、学生時代のバイト先で取れたてのトウモロコシをもらって食べた時の感動が忘れられない。茹でられたトウモロコシを塩もかけずにそのまま食べたのだが、自然の甘みが感じられ、なおかつ粒がモチモチしており、最高に美味しかった。スーパーで買って家で食べる味と全然違うと思った。野菜の本来の味を知ると、食べ物に対する考え方が変わる。
川の氾濫を抑える治水の技術がこれからの農業の発達にも貢献していく。

その33へ続く
(次回は今まで引用してきた文章の本を一覧で紹介する予定です)



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