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みつおさんのこと

18歳くらいから24歳くらいまで、実家と行き来しながらだけど、大半を祖母と暮らしていました。

…暮らしていました、なんて言うと失礼かな、要は居候です😅

そのときに祖母はよく 弟の話をしました。

祖母が何人兄弟だったか覚えていないけど、祖母には兄や姉達がいて、祖母の下には弟がひとり。

祖母は早くに母を亡くしたこともあり、姉たちは とても祖母のことを 可愛がり、雨上がりに水たまりができれば 祖母をおんぶして渡ったそうです。

ヤンチャな兄は、近所の子どもと柿の木に登り  柿を美味しそうに頬張って「ちょーだい!!」と下から見上げる幼い祖母と弟に まだ赤くない柿を投げて寄こした、と 祖母は楽しそうに話してくれました。

猿カニ合戦じゃないんだから…と言うと、それでも木をおりてくる時には、真っ赤な柿をふたりに ちゃんと取ってきてくれる 優しい兄なんだよと言いました。
(いやいや本当に優しいなら、自分が食べる前に小さい子に あげるだろ…なんて突っ込んだりはしてませんよ、もちろん🤣)

祖母と弟は 歳が近く、仲がとてもよかったので、いつも一緒に過ごしていたそうですが、大きくなると戦争中だったこともあり、弟は海軍兵学校に進んだそうです。

頭の良かった弟は、兵学校も首席で卒業、でもその頃戦争は山場を迎え、彼らは卒業の翌日には戦地へ赴くことになりました。

兵学校は寮生活でしたから、その一日を逃したら、もういつ会えるかもわからない…

祖母は、当時は本当に貴重品だったお砂糖を使った ぼた餅を持って弟に面会しに行きました。

その場で「食べて」と促すと「あとで みんなと一緒に食べます」と言った弟は、急な出征で面会に来られない仲間のことを思いやったんだろう、と祖母は言いました。

そして、翌日 弟を乗せた船は名前も知らない南の島に向かって出航したのです。

その後の詳しいことは、祖母も知りません。

でも、船が着いた その島は、既に戦地にすらならなかった…

「伝染病と飢餓」島にあったのは、それだけだったのでしょう。

兵学校を出たての 多くの若者が、戦うこともなく命を落としました…

どんなに無念だったことでしょう。

国を守り、大切な人を守るという大義のもと 命を賭ける覚悟をした 若者たちです。

なんという哀れなことでしょう…

彼らの骨壷には名前の書いた紙切れ以外、何も入ってはいませんでした。

それが、戦争。

時代は変わり、そんな戦争は もう起こることはないのかもしれません。

でも、この国は そういった多くの犠牲の上に成り立っている。

それは忘れてはいけない、と言うよりは「忘れたくない」ことで あって欲しい。

少なくとも、わたしは忘れたくない。

お盆の今日、そのことを思い出しました。

終戦祈念日が近く、戦争の話題がチラリと聞こえてくるせいかも知れません。

理由はともかく、お盆に おばあちゃんと一緒に弟さんも遊びに来てくれたらいいのにな…と思いました。

その島で一緒に逝った みんなも一緒に。

でも、命を懸けて守ろうとしたこの国を 彼らは どんな風に見おろすだろう…

わたしは胸を張って、皆さんの前に立てるのかな?

…ガッカリさせるようなことに なってはいないかな。

ともあれ、わたしは祖母の弟さんの名前も、いつか慰霊に行こうねと言った島の名前も忘れてしまった。

母に「おばあちゃんの弟って何て名前だっけ?」と聞いてみた。

「みつおさん」

そうだ、みつおさんだ。

島の名前は思い出せないけど、良かった、みつおさんの名前はわかった。

みつおさんは天国歴は長いだろうけど、お姉さんは おばあちゃんになりすぎて 見つけるのが大変だったかな…

でも、おばあちゃんは記憶の中のみつおさんに、変化は全然ないだろうから簡単に見つけられたかな…

仲良く楽しく眺めてくれているといいな…♡

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