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シリーズ 「街道をゆく」をゆく 006

第1回 「湖西のみち」

その6    近江聖人 中江藤樹と近江高島(3)

藤樹神社、藤樹記念館から南へ歩いていくと天台宗真盛派玉林寺という寺の門の前に中江藤樹とその家族の墓地がある。
石の斎垣(いがき)に囲まれた名中に三基の墓がある。藤樹の墓は土盛りがしてある塚であり、儒家の様式にもとづくもので、その前に墓碑が立っている。その隣に中江藤樹の母堂の土盛りの墓とその墓碑が立ち、さらに母堂の墓の手前に藤樹の三男の中江常省の墓が西向きに建立されている。

中江家塋域
中江家塋域
中江藤樹の墓
中江藤樹母堂北河氏の墓
中江藤樹三男 中江常省の墓



中江藤樹については、前の稿で書いたので、今回は触れない。一方、藤樹の偉大さに隠れてあまり知られていないが、この三男中江常省も日本の陽明学においては欠くことのできない人物のようだ。今回はこの常省について少し書いてみようと思う。

41歳で藤樹が亡くなったときに、正保3年(1646年)に亡くなった先妻久子との間に7歳の長男虎之助、3歳の次男鍋之助、そして再婚した布里との間にまだ生後三男彌三郎の三人の遺児があった。
藤樹は亡くなる直前に遺児の行く末を弟子たちに頼んだ。
先妻久子との間の二人については小川村の村人が養育することとし、生後間もない彌三郎については、熊沢蕃山の妹美津が嫁いでいた隣村の東万木村(現在の青柳)の岡田八右衛門に託すこととした。

遺児たちが育った後は、藤樹の門人で岡山藩主池田光政に仕えた熊沢蕃山が、光政に遺児たちの召し出しを願い出た。光政はそれを認め、遺児たちは岡山に赴き、光政の近習として仕えることとなった。
二人の兄が早く亡くなったこともあり、寛文5年(1665年)に三男の彌三郎が中江家の家督を継ぎ、寛文7年(1667年)には、岡山藩校の学校監の職についたが、当時江戸幕府が林羅山主導で官学として朱子学を推し進めたために、幕府に気を使わなければならない岡山藩内では、陽明学の系統にたつ彌三郎も立場が難しくなったのか、延宝6年(1678年)彌三郎も岡山を離れ、小川村に戻ることになる。
藤樹書院は藤樹の死後、小川村の属する大溝藩により、解散させられていた。書院は彌三郎が引き継ぐが、再開はできず、三郎はら常省と名乗り京都に移ることになる。

その後、延宝8年(1680年)に藤樹を尊敬していた対馬藩3代藩主の宗義真が、常省を対馬藩に客分として迎え、藩の教育に関わることになる。対馬藩では貞享2年(1685年)に府中の宮谷(対馬市厳原町宮谷)に学舎を建て、「小学校」と名づけた8歳から15歳までの子弟を教育する藩校※1を作った。
貞享4年(1687年)40歳で常省自身は対馬から京都に戻り、京都で数多くの門人を教えた。再び対馬藩の江戸藩邸に召し出され江戸にも出たが、京都に隠棲。その後宝永6年(1709年)故郷の小川村に帰り、1ヶ月後62歳でこの世を去った。

今も藤樹書院では7月23日の常省の命日には 「常省祭」として儒式の祭祀が行われているそうである。

なお、宗義真は中江常省の長男の藤介を世子(4代藩主義倫と5代藩主義方)らの侍講とした。藤介は、6代藩主義誠の時代に学校奉行・大目付に任じられた。藤介以後も3代にわたり中江家は明治維新まで対馬藩に仕え、二人の大目付・一人の勘定奉行を出している。

中江家の墓所を去り、南に向かってその先を歩いていくと藤樹の家で藤樹が弟子たちに教えた藤樹書院跡があらわれる。藤樹書院の建物は明治時代にこの一帯を焼き尽くした火災で焼けてしまったが、改めて元の藤樹書院の姿でできるだけ復元したとのこと。(実際には茅葺の屋根だったものが瓦葺になっていたり、家の周りは縁側で囲まれていたのが、今のものは縁側がなかったりと違っている。中江藤樹記念館にあるもとの藤樹書院の模型の写真が前の稿に載せてあるのでご覧いただきたい)。

敷地もかなり広いので、おそらくこの書院だけでなく、他の建物も敷地にはあったものと思われる。建物の中央には藤樹と藤樹夫人、それに藤樹の三男の中江常省らの位牌(儒礼では「神主(しんしゅ)」という)がならぶ壇がある。

神主は白く塗ってあり、中江藤樹の神主には「顕考惟命府君神主」と書いてある。藤樹夫人のものには「顕妣惟命公夫人高橋氏神主」、常省のものには「顕考季重府君神主」とある。「顕考」は亡父、「顕妣」は亡母を崇敬して呼ぶ言い方(「考」は亡父の意味、「妣」は亡母の意味)、「惟命」は「これなが」とよみ、中江藤樹の「諱(いみな:本名のこと)」である。「季重」は「すえしげ」とよみ、これも常省の「諱」になる。「府君」は人に対して敬意を示す尊称、「公夫人」は貴人の夫人への尊称である。

基本的には神主は子供が父母に対してその敬意を表して記載するもののようだ。中江常省の神主を見ると「孝子藤助奉記」と横に書いてある。上に書いた常省の長男で同じく対馬藩に仕えた中江藤介がこれを記したということがわかる。

藤樹書院の神主(儒礼の位牌)を置いた壇
藤樹・藤樹夫人・藤樹三男常省の神主(儒礼の位牌)



この藤樹書院では藤樹の命日には儒式の祭祀をやっている。この壇に向かって人々が拝礼するわけだが、説明員の方にお聞きすると、祭祀の間1時間ほど正座しているなどの昔からのやり方だと後継者がいなくなってしまうので、座椅子を使うなど多少昔のやり方から変えているが、基本的には江戸時代から残っている書物に記載された礼式に従ってやっているそうだ。

儒式の祭祀は東京の湯島聖堂や栃木の足利学校、それに岡山の閑谷学校などで「釈奠」(せきてん)が行われているが、多くは孔子の遺徳を称えてのもので、個人の命日に個人を祀って行うのは珍しいのではないかと思う。

また、この藤樹書院での祭祀は地元の方々によって運営されているとのこと。座椅子を使うなど現代に合わせた対応を含めて負担の軽減をしながらこうした伝統を維持していくことは非常に大切だと思う。ぜひ、こうした取り組みを支援していけるといいなと思う。

なお、藤樹書院には、藤樹が日頃使っていたと思われる褞袍(どてら)や礼装用の絹袴、絹袷、綿入れ、それに藤樹が営んでいた酒屋の暖簾(中江家の家紋である下り藤がついている)などが展示されている。
これらの品が江戸時代初期のものにもかかわらず大切にしかも藤樹が使っていた肌のぬくもりを感じられるように保存されているのを見ると、この付近の人々の藤樹への親しみを込めた崇敬のようなものを感じるのである。

藤樹が経営していた酒屋の布簾
藤樹の遺品(礼装用の絹袴)
藤樹の遺品(礼装用の絹袷)
藤樹の遺品(礼装用の綿入)
藤樹の遺品(普段着の褞袍(どてら))
中江藤樹先生坐像

中江藤樹の故郷をめぐる安曇川の旅はこれで終わりだが、最後にこの中江藤樹の故郷小川村に小さな古城の跡があるので、そこを訪れて安曇川駅の方に戻ることにした。

藤樹書林の敷地の北西の角の十字路を西に向かうと国道のバイパスの手間に1軒の農家があり、バイパスの側道沿いに北に上がると水田の端にL字型の土塁と堀の跡らしい痕跡を見ることができる。
ここがどうやら、小川城の跡である。
小川城はこの小川村近辺を支配した小領主小川氏代々の館。城の規模がどれほどのものだったのかはこの遺構だけではわからない。六角氏の家臣に小川主膳秀康という名前が見られ、ここの城主だったと考えられる。元亀3年(1572年)に織田信長の軍勢によって攻められ、落城したと言われる。おそらく清水山城(高島市新旭町熊野本)に拠る六角氏の一門の高島氏を始めとしたこの付近の六角勢を織田信長配下の明智光秀が攻めおとした一連の戦いの中でこの小川城も落ちたのであろうと思われる。ただし、大規模な多くの郭をもつ山城である清水山城などとくらべるとはるかに小規模で、おそらく平地に土塁と堀でつくられた単郭または少数の郭で構成された城館のようなものであった可能性が高く、戦略的に重要な拠点であったというよりは日常的な領主の住まいとしての役割しかなかったのではないか。

近江小川城 南東から敷地を見る
田圃の向こう側に少し低木が見えるあたりが北西隅の土塁である
近江小川城 北西隅のL字型の土塁と堀の痕跡?
近江小川城 北西隅のL字型の土塁
ネット上では「小川城跡」という手作りの標柱が立っていると記載されていたが
私が行ったときにはその標柱はこのように壊れていた。












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※1 江戸時代の「藩校」というのは、18世紀中ごろ(江戸時代中ば)以後に作られたものが多い。
有名な藩校、仙台藩の養賢堂(1736年)、会津藩の日新館(1799年)、水戸藩の弘道館(1841年)、佐倉藩の学問所(別名: 温故堂)(1792年)、岩付藩の遷喬館(1799年)金沢藩の明倫堂(1792年)松代藩の文武学校(1854年)名古屋藩の明倫堂(1783年)姫路藩の好古堂(1749年)鳥取藩の尚徳館(1757年)松江藩の文明館(1758年)広島藩の講学所(1725年)萩藩の明倫館(1719年)伊予松山藩の興徳館(1805年)高知藩の教授館(1759年)福岡藩の東西の学問稽古所(修猷館/甘棠館)(1784年)熊本藩の時習館(1755年)鹿児島藩の造士館(1786年)などをみても、こうしたことがわかるだろう。
17世紀(江戸時代初期)につくられた藩校は、大村藩の集義館(1670年)前橋藩の好古堂(1691年)米沢藩の禅林文庫(1618年)など数える程度である。

日本初の藩校は、1669年(寛文9年)に岡山藩主池田光政が設立した岡山学校だと言われている。(なお、名古屋藩主徳川義直が大津町の学問所というものを寛永年間(1624-1644)に設立したのが最初であるという説もある)

岡山藩においては、これより前の寛永18年(1641年)に中江藤樹の弟子の熊沢蕃山の主宰により花畠(現在の岡山市中区網浜)に藩校の前身となる「花畠教場」が開かれた。その後、寛文6年(1666年)に花畠教場が廃止され、岡山城内の石山に仮学館を設置、寛文9年(1669年)生徒の増加を受けて、藩主池田光政は家臣の津田永忠と熊沢蕃山の弟・泉仲愛を総奉行に任じ西中山下に藩学を建造するよう命じた。初代学校奉行には建造にあたった津田永忠・泉仲愛が任じられた。
なお、池田光政自身は陽明学を学んでいたが、この藩校では朱子学を中心に教えらえたという。授業の内容は、主に小学・四書・五経などの誦読と講義で、武技の鍛錬も行われた。『小学』とは朱子学を始めた朱熹がつくらせた子供用の儒教の教科書だ。

この岡山藩の岡山学校と並んで貞享2年(1685年)という早い時期に対馬藩では藩校「小学校」が作られた。第3代藩主宗義真が熱心に中江藤樹を崇敬しており、藤樹の息子常省を招いて、厳原城の城下町の府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の8歳から15歳までの子弟に文武の教育をおこなった。

対馬は特に朝鮮との交流により通信使が来ることもあり、藩の多くの人が異国の人と接する必要がある。朝鮮は特に儒教を重んじる国であることもあるのだろう。儒学を中心とした学問の素養がないことはそうした外国人との交接に差支えがあるという考えもあり、対馬藩は人づくりに熱心だったようである。



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