見出し画像

私に宛てた、文章についての文章

 今、書きたいことはなんだろう。

 昨晩、ふと思ったことがある。普段目にする言葉、情報のほとんどは、基本的に私宛に書かれたものではない。無論、あなた宛に書かれたものでも、ない。誰かとやりとりをしている時に、そこにどれだけ、特定の個人のために錬られた言葉が、あるのだろうか。どれだけ、ないことに、無自覚なのだろうか。

 最後に、手紙らしい手紙をもらったのは、いつだろう。中学生のときに、武者小路実篤の『友情』を読んだ。大人になったら、小説の中で描かれているような、本当の言葉を交わし合える人に出逢える。人に届けたいと切望する言葉を持つような生き方をする。そう思ってから、干支が回った。

 今年も数枚の年賀状が届いた。年々枚数は減って行く。それで良いのだと思う。誕生日おめでとう、などのメッセージもそうだが、形式的な挨拶とそこにプラスαくらいの文字が乗せられているだけで、言葉が織り込まれた背景を想像させるようなものに出会う機会はない。「おたおめ!」と送るくらいなら、いっそのこと送られなければ良いのに。印刷されただけの、相手の体温を感じられない年賀状を何枚も破り捨てた。私はそういった人間である。

 何人かの人たちと、何通かの、心が通ったと思われるようなメッセージをする。数少ない気の許した人、この人と多くの時間を過ごしたい、もっとこの人のことを知りたい、と思う人に出会ってしまうと、ついつい連絡を取りすぎてしまう。返信がなくとも、あなたに伝えたいことがある。それゆえに旧年は、仲良くなれそうに感じた数人と、疎遠になったと感じてしまっている。(今、あなたがこれを読んでくれていたら、とても嬉しいのですが)

 だから今年は、相手が目の前にいるときは言葉を、心を尽くす。それは当たり前だ。しかし、目の前にいないときに、書き殴ったような熱情だけが溢れてすぎている文章は、SNSでは送らないようにする。心がける。しかし、手紙は別だ。長文のメッセージは、勢いで書けてしまうが、長文の手紙は、私ですらも、いささか冷静になることができる。見栄を張って少しでも綺麗な字を書こうとするから、その筆のリズムが、私の火照った精神を落ち着かせる。

 冒頭で、世の中の情報や文字には、ほとんど私宛に当てられたものはない、と書いた。それは、恋人間の「愛している」や「好きだ」といった言葉でさえ、そうなのだ。誰しもが寂しく、そのいたたまれなさを吸い込んでくれる、都合のいい器を求めている。その発露を拭う指先を、尖りすぎた矛先を包みこむ陽だまりを探している。人は、そう簡単に、人をまるごと好きになれない。軽々しいと、軽やかの違いを、私はまだ醸し出すことができないから、そのような私では、まだまだいくつもの言葉を、愛情を、受け損じてしまっているのかもしれない。

 つい先日「振られた。とても悲しい」という旨のメッセージが届いた。その人の話ぶりはケロっとしていて、話題を提供するかのように、身の上話をしていた。「別れたことは事実かもしれないけど、あなたは本当に悲しいの?本当に、その人が好きだったから悲しいの?それとも別の理由で、悲しさを感じているの?私には後者のように感じるのですが、いかがでしょう」と伝えた。

 相手は少し笑った後に、「それは、話が違ってきますね。好きだったか、本当の恋だったかと言われると、違う。明確にまでも。ただ、もう少し見たかった甘い夢を、不意に誰かに起こされてしまって、それがちょっと不愉快だけだったかも。」その後に、「少し焦ってしまっていて、その契りが突然に途切れた。けれど、実はホッとしている。別れたことで、また新しい夢を探さなきゃいけないのがものぐさなだけ。」と言った。

 お互いに、気持ちの核心を探り当てたような言葉を交わしたことで、胸の中で閊えていたものが、わずかに瓦解しはじめた。探り当てられたその心情は、決して、私宛に向けられた言葉ではない。けれども、その人が自分の言葉を探り当てるのに、私の言葉が役立ったことは、その体験というものは、言葉が瓦のように積み重なり、一つ、なにか確かなものがそのとき、お互いの間に生じた気がした。

 そういったことを考え始めると、今、一人でこの文章を綴っていることの効能について、気が付き始めた。今、この書かれている文章は、誰かに当てられたものではない。強いて言うなら、私が、私に向けて、認めて(シタタメテ)いる、言葉である。書き手としての私が、言葉を選出し、吟味し、納得しながら書いている。決してうまい文章ではないかもしれないが、うまさ、よりも、私自身が、腑に落ちるかどうか、そこを大切にしながら書いている。

 だから、この文章は、BCCかもしれないけれども、少なくとも宛先の中に自分を入れて、書かれている文章なのである。文章というのは、相手を誘導したり、自分の地位を高めたり、欺いたり、様々な目的のために用いられている。今、私の文章は、私自身が、落ち着くために、ゆっくりと階段を下っていくために、その目的のために書かれている。薬としての文章とも、言えないことはない。いや、書くということ、吐き出すこと、吐露すること、言葉を精査すること、それは全て、心の置き場を探り当てるのに、とても重要なことである。

 無論、これはあなたに宛てて書かれたものではない。しかし、私が普段読む文章で、これは好きだな、心地いい文章だな、と思うものの中には、筆者が筆者のために書かれた文章が少なくない。それを私が見て、読んで、落ち着いたりするのは、その筆者の、誠実さに文章を通して触れることが出来るからである。そして、その文章を通した触れ合いによって、自分の中にも、まだ筆者の文章から感じ取ったようなものが、死にきらず、まだ内側に堪えていることに気がつける。そのことが、喜びなのである。

 この文章を、ここまで読んでくれるような、あなたのような人は、決して多くないけれど、ここまで読んでくれたようなあなたのような人の文章に、あなたが心から選ぶような文章に、今後、たくさん出会いたいと思っています。今、書きたいことはなんだろう。そうやって書き始めたこの文章は、私宛に書いた文章なのですが、その「私」と少しでも重なりを持つような人たちに、あなたに、届いて欲しい文章を、書いていました。その精度がいかなるものかは別として、心持ちとしては、そういったあなたと、私に、この文章は書かれました。

いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。