机という名詞を様々な辞書で引いてみると、似たような説明文がどの辞書にも載っていた。例えば広辞苑には以下のように記載されている。

①飲食の器物を載せる台 食卓「高坏に盛り−に立てて母に奉りや」
②書を読み、字を書くのに用いる台。ふづくえ。「−を並べた仲」


読書や飲食の時にそれは使用されるようだが、机には、もちろんだが他にも様々な使い方がある。例えば、授業中の居眠りや、一時的にものを置くスペースとしての机。また、私の友人には机を使ってマスターべーションをする輩などもいる。IKEAで売られている机にもし説明文や取扱説明書があったとして、そこに「机の使用方法の一つには自慰をするというものがあります」とは間違いなく書かれていない。だからといって、彼の快楽の追求としての机との関係性を机の誤った使用方法だとは思わないし、誤った使用方法など存在し得ないように思える(その場に適切でない使用方法があるだけ)。


つまりだ。机は人間各自が使いたいように使っていいし、使用方法や、それを取り扱う概念の有り様は個人に完全に任されている。また、机と関係性をもつのは人間だけではないだろう。たとえば、キリンの視点から見れば、より高いところの葉っぱを食べるための足を置く踏み台としの机や、灼熱の太陽やライオンから身を隠すための隠れ蓑としての机になるかもしれない。いまはキリンから見た机について例をあげたが、他のキリンからみた机や、もちろん、机からみた机や、無生物からみた机、注せよう概念からみた机にも、それぞれその使用方法があり、その関係性には独自の意味を持たせることができるはずだ。


以上のように辞書で、とある単語(ここでは「机」)について書かれている説明文は非常に限定的な環境での説明書きであることがわかった。以下に、もう少し詳しくそれについて述べたいと思う。


第一に、机は“人間”が“使う”ためだけのものでは決してない。ミジンコだってオケラだって、机の上でワルツを踊っているかもしれない(人間だけが使うとだなんで、無意識におもっているなんて、なんて傲慢なんだ)。


第二に、机は“使う”ためだけのものではない。鑑賞なんかをしたっていいだろうし、机という概念を持たないものからしてみれば、ゴミや、もしくは障害物であり、使いたいという気持ちも生まれないだろう。


そして第三に、その説明文はその説明文は著者や編集者たちがその単語にみる世界観の現れであり、その範囲でしか辞書のなんかの単語は意味を持つことが出来ていない。もちろん、彼らも机に関して言えば、上記以外の使用用途を知っているだとう。彼らなりの努力があり、辞書のなかで机を説明するために、大衆が考えたところのもっとも一般的なものをすくい取り、辞書に記述しているのだろう。


しかし、もし辞書のページに限りがなく、何千ページ、何億ページと机について語釈を載せていいと言われ、語釈を書き続けるための知性と根気をもつ生命体が存在するとする。しかしだ。それがいくら机に果てなき愛情をもっていたところで、いくら机について記述を続けたとしても、その筆の跡は机そのものにはなり得ない。言葉は言葉でしかない(のかもしれない)。しかし、すぐに逆説で申し訳ないのだが、だからといって物体としての机が、机のすべてであるかと言えば、そうではないように思える。


そこで第四である。

物体としての机だけが机ではない。世界中に散りばめられた物体としての机が机の全体像であるかといえば、それも違う気がする。宇宙が誕生し、そして今あなたがこのくだらない文章に目を通す間までに生産された机。そして、これから創造されるであろう未だ見みえぬ机。誰とも共有は出来ないけれど、誰から机について思う時に脳的視覚世界のなかに浮かびあがるその机。無名の画家の処女作のなかにぽつんと描かれた消えかかった机。どこかの滝本さんが愛娘の17歳の誕生日にプレゼントしたハンドメイドの可愛い机のぬいぐるみ。また、椅子が机になることや、机が椅子になることもあり、なんでもが机になり得る。そして、私の机との誰にも知られたくない思い出などなど。ここには記載出来ないありとあらゆる机に関してのデータが、机を構成するのではないかとわたしは考えたい。


以上のことをふまえて、「辞書の語釈が意味について教えてくれること、辞書ではすくいとれないこと」について、述べたいと思う。


辞書の語釈が私(たち)に教えてくれる/示すのは、その語釈をかいた人間が考える「世の中大衆が考えるその単語の世界観のもっとも中心にあるもの」を推測したものや、「その単語が社会に示すもっとも普遍的なものの中心」を想像したものではないだろうか。


そして、「辞書ではすくいとれないことについて」だが、上に長々と述べたことであるが、最後に簡単に補足をしたい。辞書にある単語には、私たちがその単語と過ごした思い出が欠落している。


もちろん、辞書に筆者の主観がドカドカ入り込んでいたら辞書として困るし、とある単語と私たち全人類とも思い出が事細かに書かれているわけがない。だからこそ私が思ったのはこういうことである。単語とは、とある単語が私の目の前に始めた現れた時から周りの環境からその単語について色々と教えてくれるが、その目の前に現れた瞬間から私たちはその単語との体験や記憶からその単語の意味や世界を再定義し直しているのではないだろうか。言葉が世界をつくり、世界が言葉をつくり、そしてそれは同時に発生し、進行している。そういった言葉を起点として世界は、辞書からすくいとる/与えられるのではなく、自らが作っていかなければいけない。

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