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手食と筆(1)

先日、はじめて手食でご飯を食べた。場所は世田谷区は経堂駅にある「スリマンガラム」。ここは南インドのチェティナード地方の料理を食べられるお店だ。インド料理と聞くと、すぐにカレーやナンが思いつくのだが、このお店にはナンはない。このお店で名物(?)として、出されているのがミールスという料理だ。これは料理名、というより、概念に近いだろう。例えば、京都で食べるある種のご飯をおばんざいと呼ぶように、ミールスとは、主に南インドで供される、米を主食とした複数のカレーや副菜を伴った定食と行ったところだろうか。

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カレーというのは概念

そもそも、カレーというのも、非常に広い領域を示す言葉だと2020年あたりから感じ/知り始めた。日本語で言うところの「ご飯たべた?」とか「ご飯は何にしますか?」といった文脈で使われる「ごはん」という単語ほどに広く曖昧かもしれない。「朝のご飯を食べた?」と聞かれた際に「今朝はパンを食べました」や「ヨーグルトとフルーツです」と答えるかもしれない。この質問をされた人は「ごはん」をお米、というよりも、食べ物として理解している。この「ご飯」という単語は、文脈によって「料理全般」を指し示したり、もしくは「お米」や「お米の種類」を指し示す単語になり得る。そのような形で、「カレー」という単語を聞いたさいに、「バーモンドカレーのようなカレー」を思い浮かべる人もいれば「スパイスを使った料理全般」といった解釈を持つ人もいるだろう。ぼくは、この「カレー」が指し示す範囲について学び始めたばかりなので、もっと詳しい人によってはぼくのこのカレーの解釈とは少し違うかもしれない。ただ、カレーというのは、一言では説明することが困難であり、愛、友情、といった抽象的なものと同様に、生涯にわたって考え続ける存在になるかもしれない。

なぜ、手でご飯食べる。もしくは食べないのか

といった、脱線はこれほどにしておいて、先日、冒頭であげた「スリマンガラム」というお店で、手食で食べた。お米に色々なものをかけて、それを手で食べた。右手の人差し指、中指、薬指ですくって、それを親指で口に押し込む/押し出すようにして食べる。これがなかなか難しく、そして、面白い。なぜ手でご飯を食べるのか。もしくは、なぜ手でご飯を食べないのか。

ただ、人生において手食は初めてである、というと、なんだかそれも違う気がしてくる。普段から多くのものを手で食べている。おせんべい、苺、おにぎり、寿司、フライドチキン、りんご、チーズなどなど。それでも、カレーのような状態のものを手で食べたのは初めてだった。カレー、つまりは液体と固体の間のような状態のものや、スープ、つまりは液体の中にいくつかの野菜などの固形物があるもの、またヨーグルト、これは液体と呼べるかわからないが、ドロドロやトロトロといったオノマトペが似合う食材を手で食べたのは、箸やフォークを使って食べることよりずいぶん頻度が低い。

鍋と器、おたまとスプーンもしくは手

カレーを作るときには、鍋やおたまを使う。カレーを食べる時にはそれをお皿に盛る。それをスプーンで食べるか、箸で食べるか、手で食べるか、それは育った文化圏による違いがあるかもしれない。ただ、この調理過程と実食過程を考えてみると、鍋はお皿に対応され、おたまはスプーンなどのカトラリーと対応すると考える。となると、手食の人々は、おたまに対応されるようなスプーンという考え方を持っているにもかかわらず、あえて、手で食べることを選んでいるのだろうか。もしくは、鍋、皿、おたま、スプーンなどの道具・技術以前に「料理/食事」はあったはずであるから、つまりはその時の手で食べる文化が残っているのだろうか。ぼくは、カレーのような半液体の料理を箸やスプーンで食べることに慣れているから、手で食べることはぎこちなかったが、これも慣れさえすれば、流れるように、手で食べることができるようになると思う。

手食のやり方

この人のブログには、手食のやり方が書いてある。ぼくは特に何かを参考にするでもなく、えいやっと手で食べていたので、手のひらを汚したし、指などを舐めていた。また、スープなども指をスプーンのようにして食べることができるらしい。


手、箸、ナイフ

世界には、大きく分けて3つの食べ方があるらしい。箸、手、ナイフ。日本のお米(ジャポニカ米)は粘り気が強いから手よりも箸の方が適している。一方で東南アジアなどでよく食べられるインディカ米は、水分が少なく、箸ではなかなか食べられないため手やスプーンを使ったほうが食べやすいという特徴がるそうだ。日本では、手食はマナー違反とされているように感じるが、なぜ、手食はマナー違反になったのだろう。「野蛮だ」と感じてしまう気持ちが正直あるのだけど、それは自分の文化の方が「優れている」といった思想につながっていて、他国、他者を見下すような思想につながっていかないだろうか。日本に生まれたからといって、箸じゃなきゃいけないと言う理由はないし、手食をしたっていい。ただ、多くの日本人といっしょにココイチなどのカレー屋さんに行って、ぼくが手食をしたら周りの人は驚くように思う。

手食をしてみて感じたのは、自分の指先を感じるということ。指先が何度もなんども唇に当たる。これはキスをしているような感じだ。唇に何が触れるかによって、食事の体験は変わる。例えば、木のスプーンか、銀のスプーンか。スプーンの素材、温度、厚みが唇に与える印象が、味覚にも影響を与えているはずだ。例えばハイボールを缶で飲むか、ガラスのコップで飲むか、プラスチックカップで飲むか。唇が触れる部分の温度、厚み、素材によって流れ込んでくるハイボールに対して違う印象を受ける。例えば、コカコーラを飲むときに、ぼくは可能であれば、瓶のものを飲みたい。瓶は冷たく口がぶあついのでガツンと冷たさがやってくる。一方でストローで飲むと安っぽい感じがする。これは、ストローの素材であるプラスチックに対して安っぽいという印象を持っていることや、プラスチックが柔らかく、一秒にたいして口にいれれる量など、様々なものが影響を与えている。また、瓶からコーラを飲むときは重力を利用するが、ストローの場合は口が作った吸引力を利用して飲むから口にかかっている力の使い方や、頭の向きなども変わってくる。そういった様々な変数が合わさって、食事の体験はできているのだと思う。ただ、これらは「思う」というだけで、ぼくはしばらくコカコーラを飲んでいないし、ストローも使っていないから、自分の頭の中にある印象だけで物事を語っている。いま、飲んでみたら、もしかすると瓶よりもストローで飲むことの方が美味しいと感じるかもしれない。

そう感じたいからなのか、実際にそう感じているのか

だから、手食をするときに「手食の方が美味しい」と感じるのは、そう感じたいからなのか、実際にそう感じているのかは、よくわからない。

この問題は、よく起こる。何かをしたいと思ったときに、それがしたいのか、もしくは、ただそのことを思いついたのかは、よくわからない。怒ったときに、その対象を壊したい!とか、人間ならば、ぶん殴ってやりたい!殺してやりたい!と思ったときに、それは果たして本能からなのだろうか。反射的におもったからといって、ただ、そう思いたいだけで、そういった言葉が手っ取り早く出てきただけで、違うのではないかと思う。

ぼくはよく、携帯電話をうざったく感じる。例えば、朝のアラームなどを聞くと、その音がすごく嫌いなので、携帯電話を壊したくなる。しかし、壊してみると、色々と困るような気がする。お金がかかる。もし、無尽蔵にお金があったら携帯を壊すだろうか。今度は、ものを大切にしない自分が嫌な気分になってくる。いや、嫌な気分をじぶんにもたらすことで、自分に対してもってもいないものを大切にするという感覚を与えているのではないか。このように考えていくと、自分が思っていることや、嫌な感じ、いい感じというのは、自分の内側から来ているのか、もしくは単なる思いついた感情・考えなのか、よくわからない。スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学でのスピーチで「ノイズ」という単語を使った。まさにこのノイズで、自分自身が思っていることを把握するためには、ノイズがどれなのかと行ったことを把握する、もしくはノイズをくぐり抜けてノイズではないところにたどり着く必要がある。

手食をしていると、普段、食べ物と口(自分の躰)との間にある箸、スプーンといった中間が自分の手に置き換わる。つまりは、自分の躰と食べ物との接触が、箸食/ナイフ食よりも早く訪れる。また、箸やナイフよりも手の方が唇の温度と近い。37度近くあたたかな手の熱が食品に伝わって、その食品が自分の口を通して、躰の中にやってくる。重力に従うのか、線毛運動に従うのか、それによって食べ物は躰を下へ下へと移動する。そして、肛門から排泄されるわけだけど、そう考えると、人間の本質は一本の管で、手や指の大きさ、色、形は違えど、単なる管なのだという認識が色々なしがらみを軽くするかもしれない。

食に限らず、音、匂い、視覚は感覚器官を通して脳みそに到達し、認識によって世界が形作られている。外界には無限に近い情報があるけれど、例えば赤外線を視ることはできないように、世界から情報を取捨選択して取り入れることで、その都度判断を下して、行動を起こしている。暑い、寒い、とか。この人は好きだ、嫌いだ。とか。次は何をしよう、とか、エスカレーターではなく階段を登ろう、だとか。

本当は、手食と、絵筆との関係性について考察しようと思ったのだけど、脱線が楽しくなってしまった。指とか、手とか、そういったことを考えていると、楽しいのかもしれない。もしくは、避けたいことがあって脱線しているのかもしれない。手食のことを考えていくと、やはりインドという地方や、時間軸を数百年戻してみたどこかの時代のことを知る必要があるように思う。参考になる文献を読んでみたり、実際に手食をしたり、絵筆を使った体験などを深掘りしながら、次回も書いていこう。


手食を調べていると、すぐさま「不浄」という考え方に出会うのだけど、このまとめが面白かった。

イスラム文化センターによると、イスラムでは「左手は不浄とされる」だから右手で食事を取る。というふうに言われることがありますが、これは実は正しくないそうです。
右手で食べるのは、ハディース(預言者言行録)に「食べるときは、右手で食べよ」とあるからで、特に左手が不浄と言われているわけではないようなのです。
一方、ヒンズー教では左手は不浄の手とされています。ただし、これは男性のみです。女性にとっては逆に左手が神聖な手だとされているそうです。
また、手のみではなく、半身にも神聖な側があるようです。
男性では右手右足が神聖で、女性では左手左足が神聖とされています。
これらは、ヒンディー教の神がその右手から男性を、左手から女性を作ったという神話に基づいているのだそう。

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