感動のできあがり、そして純度
よろこばすこと。感動すること。ずっとよいことだと思っていた。
しかし、そこには高低差がある。
純度がある。質がある。それは、はかる必要があるのではないか。
雑味の混じった、よろこび。感動。
それは、もしかすると、ワルいものではないだろうか。
どの程度、それをほっしているか。5秒でも考えたことがあるかな。
killing timeのためにやるのか。時間をきにせずやりたいのか。
さびしさから逃げるためにやっているのか。
おもわざ楽しくてやってしまっているのか。
ついつい手がでてしまう。おかしにいつまでものびる手。
「これで終わり」何度も願うも、やってしまうネットサーフィン。
やっていてなんとなく楽しいから続いてしまう。
けど、その楽しさの大半は雑味ではないのか。
「なんとなく」は、とても深い。そこの見えない湖が広がる。
言語化できない、神秘的な楽しさがある。
「なんとなく楽しい」
言語化できない、神秘的な楽しさがある。
心のなかにひそむさびしさ。それを惹きつける引力がある。
意識の下にある、コンプレックス。忘れてしまった思い出。未来への希望。
いろんなものが湖にはとけこんでいるみたいだ。
純度のたかい、たのしみ。よろこび。
それは、どういったときに、感じるだろうか。
同じ行為でも、ときによって。異なることがある。むずかしい。
「じぶんをよろこばせること」
ぼくはこれを大きな軸として生きている。そんな気がしていた。
では、質問。
じぶんとは、だれで。よろこぶ、とはなにか。
<ここで沈黙。3分の余白を、ここに入れたい。
そして、考えてみる。
じぶんとは、だれで。よろこぶとは、なにか。
3分。>
「感動しなきゃ」
そうおもって、映画をみる。よていどおりに感動する。涙をながす。
「ああ。泣けた。じぶんは、感性が豊かなんだ。ああ。安心。」
そんなことをしたときに、一瞬。心の中に虚しさひかる。
なんてやすっぽい感動なんだろう。
打算的な感動には、ちいさな刃が。どこかに潜んでいる。かもしれない。
もちろん、打算的な感動にも。質のいいものもある。
「これをやったらアノ人喜ぶかな。」
「これを食べたら美味しそうだな」
「これができたら素敵だな」
そういった計算された感動。否定したわけじゃない。
でも、なんだろう。なにが違うんだろう。
「感動しなきゃ」
「成長しなきゃ」
「祝わなきゃ」
「お礼をいわなきゃ」
そういったことを考えたときの、後。
なんだか、心にちいさな穴がぷつぷつ浮かんでる。
なんなんだろう。なにが違うんだろう。
なかなか、言語化できそうではないけれど。
違いをつくるのは、美意識のようなものか。
なんなんだろう。なにが違うんだろう。
これはどこから来たんだ。そして。どこへ向かう。
ぼくはなにに感動したんだろ。していくんだろ。
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