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思い出せないことのいくつか

たぶん4月とかに書いたやつです。チャミチャムの2回目を企画するにあたって、自分がいったい何をしたいのか半年くらい考えていて、今回は「思い出す」ということを掘りまくる数ヶ月にしてみようかと思い毎日考え中です。作品本編が果たしてそういう話になるのかはわかりませんが、思い出すことについての記録を続けてみてます。自分用に書いてたのでまとまりがないかんじなのですが、その切れ端の文章です。全部がこれなわけではないです。記録の記録。




あなたの知らない話をする

舞台が終わってまた始まって、初日が開けたと思ったらもう千穐楽で、終わったことへの熱を帯びた夜の次の日にはもう次の現場の台本を読んでいる。昨年の12月から毎月一本、4ヶ月連続で舞台公演の出演が続いてその合間合間にちいさな映像の出演もいくつかこなして、それでもまだ次の台本があるのは高校生のころの私からしたらきっと考えたことのない未来。夢の夢のまた夢の、その先にいる。千穐楽翌日の少し寝過ぎたぼんやりとした頭で溜めていた連絡をいろんな人に返して、そのながれでスマホに文字を打ついつもの時間。演劇に関わることが仕事になったらいいなとは思ってはいたけれど、こんなにちゃんと劇場に毎月立つようになるなんて思わなかった。


どうして演劇をしているのか、問われることが多い。なぜ演劇なのか、なぜ俳優なのか。この手の質問はオーディションでよく聞かれるし、自分も同業の人に聞いたりする。創作に関わる人間はこういう理由を聞いたり話したりするのが好きなのかもしれない。どデカい物語が聞けるときもあれば、ただ売れたいからと言う人もいる。ニュアンスで「(稼げないのに)なんで続けてるんですか」を受け取る時もある。世間の人にとって例えばこれが「食えない仕事」だとしてもそれが私にはあんまり気にならないのはそれだけ演劇が好きだからなのか、お金を沢山稼ぐことにあまり魅力を感じていないからなのか、わからない。こういうとき同級生だった子が「理由っているのかな」と言っていたのを思い出す。なぜその仕事に就いているか、理由は別にあってもなくてもいい、あるときはあるし、ないときはない。俳優でもそれは同じだと思う。


私は昔から思い出を話すのが好きだ。好きだというかそういうことばっかり話してしまう。台本を覚えるとか短期的な記憶は得意なくせに、長期的な記憶は苦手だから本当に断片の寄せ集めみたいなのを頭の中で何度も何度も思い出してそれを人に話す。嬉しかったこと、嫌だったこと、わけがわからなかったこと、びっくりしたこと。何度も何度も話す。何度も思い出して話した記憶はもう元の本来の思い出とは形が全然違くなって奇妙に整理整頓づけられて、そこまでしてしまって結局、本当はこんなことしたくないのにな、と唐突に思ったりする。お店で食べた美味しかったものを何度も何度も記憶に起こして自分で再現してみたりして、でもまた食べに行ってみたら記憶とは全然違うみたいな、そういうときは虚しい。それでも口をついて出るのは思い出話で、話した後に大切なものを改変してしまった気持ちになるなんて本末転倒である。


毎月の舞台は毎回が大きな挑戦で、大きな経験で、毎回を忘れていきたくない。それがいつか端からもろもろと崩れて断片しか残らなくてもそのとき感じたことがあまりにも特別で当時の私にとって大きな価値がある出来事だったことを信じていたい。演劇をやるのに理由はいらないけれど続けるからには生まれてくる欲求や行きたい場所がある。最近そのことについて考えては自分が何をしたいのかうまく言語化できずだったけれど、思えば昔からものすごい懐古趣味で、結局のところ私の欲望の大元は、去ってしまったことに出会い直したい、ということに帰結するのかもしれない。去ってしまった記憶や会えなくなった人に突然演じている最中に出会うことがあって、その瞬間のために舞台に立ち続けていると言っても過言じゃないんだろう。心が胸のまんなかにぽっかり浮かんでいるとして、その下に私が繰り返し思い出しているうちに端が削れて取りこぼして、もう思い出せなくなった記憶の砂塵が溜まっているとして、俳優として人の言葉を読んでいるうちにその記憶らが舞い上がってぱっぱっとひかる時がある、それを何度でも見たい。見たいからきっと続けている。

思い出せなくて、なんどもなんども後悔して、小さなことに舞い上がって涙がぼろぼろ溢れて、そのことだってまた忘れて、それでもいつか、思い出せないことのいくつかを少しでも、いつか思い出せるからまた明日も過ごしていけるような気がする。

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