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ソニー創業者から学ぶ行動のスピード

半澤光希です。

幼少の頃、漫画とゲームで育った僕は任天堂のスーパーファミコンやソニーのプレイステーションにだいぶお世話になりました。

僕の青春時代をつくったとも言えるゲーム機たちですね。


ソニーといえば、
・ラジオ
・ウォークマン
・カラーテレビ
・プレイステーション

など、今の日本を便利にしてきたモノ達を世界に先んじて、高い技術力を持ってつくってきました。

今の日本の土台をつくったと言っても過言ではないかもしれないですね。

各家庭のリビングの中心的な存在であるカラーテレビや、持ち運べる音楽プレーヤーとして社会現象にもなったウォークマン、子供達の遊びの時間の中心だったプレイステーションなど、本当に華々しい商品が並びます。


そんなソニーですが、終戦の翌年、焼け野原になった東京でスタートします。

1946年に盛田昭夫と井深大が、日本の東京都中央区日本橋にあった百貨店・白木屋の3階を借りる形で事務所兼工場を設け、共同で創業した。


まさに何もないところから、たくさんのチャレンジの中で様々なプロダクトをつくってきたソニー創業者井深大さんの人生や言葉から学んでいきたいと思います。


終戦後10日で東京に上京

太平洋戦争が終戦するときに疎開先の長野いたという井深さんですが、

「情勢が落ち着くまでここに留まろう」という周りの声も気にせずに、まだ焼け野原状態の東京へ終戦後10日で上京します。

「これから日本がどう変わっていくかわからない中で、
 急激な変化の情報が一番あるのは東京」

とのことで、何よりもスピード感を持って東京へ移動した井深さんの行動のスピードはすごいです。

終戦という今まで体験したことのないような大きな出来事の中でもスピード感を持って進んでいたのは、この戦争で命が助かったら人のために役に立つ仕事をしようとの想いがあったそうです。


この行動は、現代にも通じるものがあると感じました。

当時と違い今はオンラインのツールも増えましたので、物理的な上京だけが手段ではなくなりましたが、
東京に情報や人が集まっているのは間違いないと思います。

情報自体はインターネットを通じていくらでも得ることが出来ますが、急速に変化する世の中や危機感、そしてたくさんのチャンスをリアリティを持って体感するには東京に出てきてしまうのが早いなと感じます。


日本初のトランジスタラジオ、歩留まり5%で生産に踏み切る

歩留まり5%というのは、つまり100個中、製品になるのがわずかに5個ということです。

その状況で生産に踏み切り、スタートを切った上で率をあげていくことを選択したということです。

「普通の起業家だったら絶対にしない選択」とも言われたそうです。

結果的にこの選択の後にトランジスタラジオは大成功をおさめます。


本当にすごい決断だなと思いますが、僕自身も商売において、状況や準備は整っていないけれども、まずここでいくしかないという決断をたくさんしていきました。

その決断の時には、まわりからなんやかんや言われる事もありますが、状況が整うことを待っていたり、事情が変わることを待っていると逆にいろんなものを逃すこともあるなと思います。

井深さんのように、目の前に動ける道があれば進みながら整えてなんとかするという気概を持ってチャレンジしたいです。

本当に多くの勇気をもらいます。


困難はむしろこれを歓迎

ソニー創業の際に井深さんが大切にしていたことは

「技術上の困難はむしろこれを歓迎」
「一番大切なことは、人のやらないこと、どこにも存在しないもので勝負する」
「そのためにはどんな困難が伴ってもそれに打ち勝つ」


今の世の中にあるものではなく、どこにも存在しないものであり、人のやらないことであるから価値がある。

そのことは井深さんの生き方からも本当に伝わってきます。

戦後、ソニーの井深さんのように何もないところから、とんでもない努力によってたくさんの影響力のある日本企業が生まれ、世界的にも活躍しました。

次は僕らの番であると思いますので、戦後の混乱から先輩経営者達がつくりあげてきたように、大変な時代ではありますが僕ら一人一人の努力によって良い時代となるように努力をしていきたいですね。

お読みいただきありがとうございます。

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