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【節約生活#718】何が足りているか

 趣味で節約生活をはじめてみた。
 肉体的、精神的、社会的な健康を目指しながら節約をするというルールで挑戦中。
(2024,6.15更新 それまでは「健康で文化的な生活をしながら節約をする」というルール)

疲れはどこからくるか

 ”足るを知る者は富む”はあまりに有名なことばである。
 自分が足りていることを知っていれば、豊かであるのだという。
 老子の道徳経33章にちらっと出てくるが、そこの部分だけは誰でも知っている。どの時代でも、誰にでも強く心に刺さるからだろう。

 このことばを思い返したのは「疲労社会」を読んでいる最中であった。

 著者はさかんに社会が過剰を求めるとしている。自身でも自身に過剰を求めるようになり、自分自身を搾取してしまう。そうして常に疲労を感じ、抑うつにさいなまれる。そういう社会なのだと言う。

 自身としては、過剰な生き方への反発というか、なんだか違うなあという価値観を持っているものの、ついでにあれこれ欲しいという衝動にかられる毎日でもある。ついつい手を出してしまう。

 働きすぎたのもその一環だろう。過労で苦しかったとき、あまり気づきはしなかった。先日も会食をしたときに、参加者のひとりに以前の自分のような生活をしている人がいてかわいそうに思った。彼の体調はたいてい悪い。先日は骨折をしていた。会食の際も何も言わずにひたすらお酒を飲んでいた。目の前にいたのにあまり言葉をかわさなかったことが悔やまれる。
 彼のメールの署名欄にはあれもこれもと肩書がついている。承認欲求が自身を苦しめているように見えてしまった。

 お金を稼いだって、たとえ有名になったとしても、豊かに生きられるのだろうか。自分だけの時間のない時間を長く過ごしてしまったせいで、今の自身ゆっくりとした時間がやけに貴重に感じる。
 節約をしいていくと、それほどお金をかせがなくてもゆったりとした時間をとることができるのだと気づいた。仕事をしなくても暮らせるほどのお金を目指す人もいるけれども、そんなに多額の貯金は要らない。充分である。

自分の充分さ

 しかしながら、充分に気づくことは難しい。
 これまでも、ずっと「もっと」を繰り返してきた。
 もっとたくさん点をとれ、もっとたくさんお金をかせごう。もっともっと働け・・・。そのためにいっぱい時間と労力をかける。そうして疲労をため続けていく。

 社会や文化がそうなのか、資本主義がドーパミンを刺激するのか、今でも「もうちょっと」と思うことがある。

 どれくらいが充分なのか自分でもわからなくなる。

 お金に関していえば、一般的にも見積もることができていいない。以前は老後に2000万円いると話題になったけれども、最近は4000万円必要なのだとかエスカレートしていたりする。

 馬鹿馬鹿しい話題であるけれども、よくわからないものは人を不安にさせるので仕方ない。
 自分の充分さもよくわからないので、確固としたことは言えないので不安にさせるのだろう。ちなみに、先に挙げた老子の一節の少し前には「自らを知るものは明なり」ということばがある。
 自分の充分さも含めて自分を知ることができるならば、確かに明確に自分自身を保っていられるだろう。

 節約をしていると、自分にかかる費用が最低限どれくらいなのかを明らかにすることができる。それだけだったら、無理をしていく必要がない。足るを知るものは人生も富むのだと感じる。

過剰にしない練習

 暑さのせいで、図らずも活動量が減っている。
 ちょっとした「もっと」「もう少し」に手を出さない練習になっている。

 少ない時間だけで身の回りのことから丁寧にくらしを作っている。
 活動量の最低限をこの夏の暑さで知ることができるだろうか。

 丁寧に暮らす最低限を感得できたなら、きっとゆっくりと自分自身の時間(イコール人生)を過ごすことができるのだと期待している。

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