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はだしのゲン/中沢啓治bot

@genhiroshima

なにもアメリカのいいなりに(湾岸戦争に)お金を出し、掃海艇を出すことが「国際的貢献」というのではないと思います。戦争が起こらない環境づくりや、戦争が起こっても停戦・和平への調停をするなど、平和のための貢献を日本はちゃんとすべきではないかと私は思います。(中沢啓治)

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午前10:39 · 2023年2月25日

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https://x.com/genhiroshima/status/1629294963560259584?ref_src=twsrc%5Etfw



安倍晋三政権が教科書への統制をエスカレートさせています。2017年度から使われる高校教科書の検定結果では、集団的自衛権の行使容認などにかかわって、文部科学省が政権の主張通りに記述内容を書き直させた事例が続出しました。国民の間で見解が分かれる問題で、政府が自らの言い分を「正解」として教科書に書かせるのは、政治による教育支配そのものです。民主主義社会ではあってはならないことで許されません。

安倍政権の主張にそって

 安倍政権は14年に教科書検定基準や教育内容の基準を改悪し、社会科などの教科書の記述を政府の統一見解にそったものにするように教科書会社に要求しています。

 今回の高校教科書検定で、ある現代社会の教科書は、自衛隊についての記述に「第9条の実質的な改変」とのタイトルをつけていましたが、「自衛隊の海外派遣」に変えられました。「実質的改変」などしていないというわけです。

 別の現代社会の教科書は安倍政権が掲げる「積極的平和主義」について、「アジア地域をはじめとする広範な地域で自衛隊の活動を認めようという考え方」と書いていましたが、「国際社会の平和と安定および繁栄の確保に、積極的に寄与していこうとするもの」と変えられました。これも安倍政権の言い分そのままです。

 日本軍「慰安婦」や戦時下の強制労働など戦後補償問題では「法的には解決済み」との日本政府の主張を書きこませました。「慰安婦」問題で「政府、強制連行を謝罪」との見出しを付けた新聞記事は教科書から削除させました。領土問題でも「日本と中国の間に領土問題は存在しない」との政府の主張を一方的に書かせています。

 関東大震災のさいの朝鮮人虐殺や南京大虐殺などの犠牲者数については、14年の改悪で設けられた「通説的な見解がないことを明示せよ」との検定基準を適用し、人数をあいまいにしました。犠牲をできるだけ小さく見せようという意図であることは明らかです。国家が「通説がない」などとごまかし、事実を直視させないというのは、きわめて問題です。

 戦前の日本は、軍国主義推進の教育をするために、神話を歴史的事実として扱うなど国に都合のいい国定教科書をつくり、子どもたちを戦場に駆り立てました。戦後はその反省から、民間のさまざまな教科書会社や執筆者が、学問の到達点を反映した教科書をつくることにしました。ところが、教科書の内容を検定でチェックし、政権の意向にそって書き直させることがこれまでも繰り返し問題になっています。政権に都合の悪いことは書かせないということでは、国定教科書への逆戻りです。

「国定」への逆行許さず

 今回の検定は、安倍政権が集団的自衛権の行使容認、戦争法の強行など「戦争をする国づくり」をすすめるなかで行われました。教育を「戦争をする国」の「人材づくり」の場にしようという政権の暴走が、検定による教育支配に拍車をかけています。

 学問・研究の成果に立って事実を学び、多様な見解を知って自ら判断する力を養える教科書づくりを保障するべきです。自らの主張だけが正しいかのように書かせる安倍政権に、教育をゆだねることはできません。

2016年3月27日(日)

主張

高校教科書検定

政治による教育支配をやめよ




 広島市教委が、現在平和教育に使っている教材において、来年度から「はだしのゲン」を他の絵本などと差し替えると発表した。もちろん広島の学校から「はだしのゲン」をみな廃棄するというような話ではない。だから鬼の首を取ったように騒ぐほどのことはないかもしれないが、少なからず反響は大きかった。

 まず差し替えの理由がよくわからない。現在小3の教材には、父親を助けるところ、(父親が反戦を唱えたために非国民扱いされ、仕事もなく)家族を助けるために町で浪曲を歌い金を稼ぐところ、母親に精をつけさせようと鯉を盗むところ、が使われている。

「浪曲は児童になじみがなく、鯉を盗んでもいいという誤解を与える」おいおいそんなバカな。なじみがなければ説明すればいい。それが授業ではないのか。じゃあ世界史なんかなじみのないことだらけだぞ。鯉を盗む行為に関しては皆で話し合えばいい。そここそ大事なのではないのか。

「漫画では被爆の実相に迫りにくい」ともあった。いや「はだしのゲン」ほどリアルに描かれたものはないだろう。体中に割れガラスが刺さったままさまよう人。体中の皮膚が剥がれ指先からその皮膚が垂れ下がったまま歩く人。むしろトラウマになりそうな描写で、以前は残酷すぎると閲覧禁止になりそうになったこともあるぐらいだ。
しかし原爆の悲惨さだけが「はだしのゲン」の特徴ではない。その反戦のメッセージが素晴らしいのだ。

 母親のセリフ「いつも戦争をおこそうとする企てをはやく見破って、みんなで声を張り上げ反対してふせぐのよ。国のためだと言って戦争して、かげでもうけるやつがいつもおるんじゃけえ」

 先生のセリフ「政治をしっかりみつめてほしいのじゃ。政治から目を離し背を向けると知らぬまに戦争の準備がされ、気がついたときはおそいのじゃ」

 これは今の子供たちに絶対に教えなければいけないことだろう。ひょっとしたらそう思ってもらっては困るのでは。子供たちにはすすんで戦争に行く気持ちを持ってもらいたい人たちがいるのでは。そう勘繰りたくなる。

 再び母親のセリフ「また戦争をよろこぶ流れがおきてしまったらもうおそいのよ。つぎつぎと治安維持法みたいな法律をつくられ完全ににげられないようにされ、人間がただの戦争する道具にされるんだから」

 まさに今現在への警鐘ではないか。

「はだしのゲン」に込められた反戦メッセージを“不都合”と考える人たちがいる?

公開日:2023/02/23 06:00 更新日:2023/02/23 06:00







漫画『はだしのゲン』は、作者の中沢啓治氏自身の被爆体験を元に、戦中戦後を生き抜く少年、中岡元(ゲン)の姿を描いたものだ。漫画本編を読んだことがなくとも、「だめじゃだめじゃだめじゃ」のコマを切り抜いたインターネットミームで同作品を知る人は多いのではないだろうか。約50年前の週刊少年ジャンプ連載作品でありながら今もネットで話題になるのは、長年、広島市が平和教育教材として使用し続けてきた影響も大きい。ところが、広島市教育委員会による「平和教育プログラム」の見直しによって、小学3年生向けの教材から削除される方針が明らかになった。俳人で著作家の日野百草氏が、被爆二世である自身のルーツに触れつつ、都合が悪いもの、見たくないものを「なかったこと」にしようとする可能性の恐ろしさについて考えた。

 * * *
 原爆の悲劇を描いた不朽の名作『はだしのゲン』が、物語の舞台である広島市の平和教育教材から削除されることになった。広島市教育委員会によれば「限られた授業時間では原爆そのものを伝えづらい」「当時の文化や悪事の背景まで説明できない」といった理由である。教育委員会の有識者によれば、栄養失調の母親のために鯉を盗む、家族のために浪曲を歌って日銭を得るといった行為が「なじまない」あるいは「誤解」を与えるそうだ。また原爆による倒壊で家の下敷きになった父親が息子たちを逃がす場面もまた「被爆の実態に迫りにくい」らしい。教育現場における時間の制約と苦労はわかるが、本当にそうなのだろうか。『はだしのゲン』は教育に「不都合」なのだろうか。

 筆者は長崎の被爆二世である。ただそれだけの話だが、そのおかげで被爆者の父から記憶という「財産」を受け継いでいる。その記憶という「財産」は決して美しい悲劇などではなく、むしろ『はだしのゲン』で描かれたのと同様に残酷で、理不尽で、受け取る人によっては「愚か」とされてしまうかもしれない。それでも、筆者はこの一族の「不都合」を誇りに思っている。

 これから、その2019年に亡くなった長崎の被爆者、父に成り代わり、「私」として、生前に伝え聞いた記憶そのままに語ろうと思う。

「被爆者は早死にする」と言われたことが悔しかった「私」

〈私の家族は、原爆に殺された。

 六人家族で長崎市の西山という高台に住んでいた。昭和20年3月生まれで四兄妹の末っ子である「私」は生後半年だった。

 あの日、父は山の表側にある畑に出ていた。一番目の兄は勤労動員で長崎造船所にほど近い工場で働いていた。母と二番目の兄、姉は私と家にいたと思う。「思う」というのは父親とも一番目の兄とも会ったことはなく、その原爆の記憶は残された家族から聞かされたものだから。
8月9日、長崎に原爆が投下された。私の被爆者健康手帳には「爆心地から1.5km」とあるがそれが正確かはわからない。父は全身焼けただれたまま家に戻り、玄関先でのたうち回って息絶えた。一番目の兄は行方不明のままだった。母と姉、二番目の兄、そして私は助かった。家は爆心地からみて山の裏側だったから助かったと聞く。爆心地に面した側の畑に行った父と、市内に行っていた一番目の兄はやられた。母は放射能の恐怖など知るよしもなく、私をおぶって西山を下り、長崎市内を探し回った。二番目の兄も一緒に探した。結局見つからず、仕方がないので工場近くの骨を拾って「兄」として持ち帰った。だから骨壷には誰の骨かわからない「一番目の兄」となった誰かの骨が入っている。

 終戦後、母子家庭となった我が家は母が行商で私たちを養い、物心がつくと同時に二番目の兄(以下、兄)も私も長崎民友新聞の新聞配達を始めた。姉は「ロバのパン屋さん」をしていた。長崎民友新聞は現在の長崎新聞である。ロバのパン屋さんとは戦後ブームとなったパン屋のチェーン店およびその名を称した店のことである。戦後、いらなくなったロバや馬に台車を牽かせてパンを売っていたのが始まりと聞く。兄も姉も、中学生だったが学校そっちのけで働いた。私も小学生だったが働いた。そうでもしないと食べていけない、そういう時代だった。貧乏で修学旅行にも行けなかった。当時、修学旅行は希望制だった。

 兄は勉強家だった。新聞配達の余り(残紙)を持って帰って隅々まで読み、貯めたお金で安い辞書を買った。それは角川書店の国語辞典で、いまも遺品として残っている。辞書を角川にした縁か、文庫の何冊かも角川文庫だった。兄は巻末の「角川文庫発刊に際して」の一文が好きだった。「第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した」という当時の社主、角川源義の名文である。「立派な人だ」と兄は言っていた。母も兄も天皇は憎まなかった。不思議とアメリカも憎まなかった。しかし東條英機は憎んでいた。「お父さんを殺した東條が憎い」は母の口癖だった。思想も事情もへったくれもなく、家族を原爆で亡くした、素朴な被害者感情であったように思う。

 学びたかったのに高校に上がれず新聞配達員を続けていた兄は、やがておかしくなった。体調も悪く、わけのわからない言動も増えた。そのころ姉はすでに集団就職で出てしまい、母と私は戸惑うしかなかった。しばらくして長崎県警が「お前のところの息子が長崎本線で轢かれて死んだ」と知らせに来た。遺書もなく、自死か事故かはわからない。「東京に行きたい」「富士山が見たい」と言っていたので線路を歩いて行こうとしたのか、それもわからない。私は兄の事故が小さく載った新聞を、いつものように配った。

 そして母もおかしくなった。彼女の体調はさらに悪く、加えて夫と息子二人を失ったショックが精神を蝕んだ。さらに不運は重なり、駅前で勝手に行商をするなと警察にとがめられ、商売ができなくなってしまった。それまでは何も言われなかったのに、世の中の決まりごとが改めて作られ始めていた。時代は昭和30年代に入り、東京オリンピックに立候補だ、国際連合に復帰するんだと、日本はとっくに前に向かって歩き出していた。私の家族だけが、いまだに原爆の只中に取り残されていた。同じころ、長崎の平和祈念像の除幕式があったことを覚えている。兄が熱心に口にしていた被爆者救済も「原爆医療法」として実現した。「これから100年は草木一本生えない」と聞いていたが、長崎の海も山も美しい。人間も自然も強いと思った。

 しかし母は井戸に身を投げて、死んだ。
 私はその時のことをよく覚えていない。その現実を受け入れられなかったのかもしれない。「俺がいたのになぜ死んだ」と。彼女の夫も息子二人も死んだが、「俺は生きていた」のに。会ったこともない東條より、私は母を恨んだ。その後、姉が遠くにいるとはいえ一人ぼっちになった中学生の私に様々な誘いがあった。「原爆を落とした憎き米帝を倒そう」という政治団体が来たかと思えば「原爆を落としたアメリカを見返すためにも豊かになりましょう」という政治団体も来た。「原爆と先祖の悪縁を断ち切りましょう」「信心すれば原爆症にはならない」という宗教団体も来た。右も左も宗教も、みんな原爆を利用していると思ったので無視した。新聞販売店の店主の話では、その中には戦時中「お国のために死んでこそ極楽浄土に行ける」と出征兵士に説いた坊主や、「我が子をお国に差し出してこそ愛国婦人」と檄を飛ばした社長夫人もいたそうだ。その夫人の子は兵隊に行くこともなく、京都の大学に行った。そんな日本人ばかりではないが、そんな日本人はいっぱいいた。

 母の死の翌年、私は中学を卒業、集団就職で東京に出た。丸ビルのテナント改修現場で働いていると、エレベーターガールをしていた女性がいた。いろいろあってつき合うことになり、彼女が住む世田谷の両親の家に挨拶に行った。案の定「被爆者だから」と反対された。東京では一部の人から「放射能がうつる」「奇形になる」と言われたので、長崎出身とか、まして被爆者ということは隠していた。それが怖くて被爆者健康手帳を申請しない被爆者も多かったし、逆に被爆者なのに認定されない被爆者もいた。私は彼女の気が強かったので結婚することができたが、被爆者だからと反対されて別れた男女もいた。学生運動真っ盛りだったが、油と塗料まみれで現場に立つ中卒の私を相手にする大学生はいなかった。

 がむしゃらに現場で働いた私は20代で千葉にマイホームを持った。信用もなく、保証人もいないのでキャッシュで買った。日本の高度成長は経験した者にしかわからない。被爆者で身寄りのない中卒の私が20代で新築一戸建て、それほどまでに夢があった。人の嫌がる仕事やきつい仕事をすれば金が稼げた。この時代の日本では、現場の人にお金が払われた。一男一女の子宝にも恵まれた。

 昭和40年代、そんな私に過去が追いかけてきた。原爆で直接死となった父と一番目の兄に勲八等を国がくれるという。勲章を喜ぶかは好き好きだが、私は勲章より父や一番目の兄が生きていたほうがよかった。母と二番目の兄には何もないことも無念だった。

 私は3度のがんを克服し「被爆者は早死にする」と言われたことが悔しく長生きしようと思ったが、2019年、74歳で敗血症に罹り死んだ。少し早いように思うが、被爆者としては上出来に思う。孫も見れたし、親兄弟のところに行く。〉
『はだしのゲン』と原爆を「なかったこと」にしようとする意図はないのか

 以上が筆者の父の被爆者としての生涯と、筆者が息子として聞いたままの「思い」である。この、我が家の原爆にまつわる「すべて」を聞かされたのは中学の時だった。幼少期は「姉以外は原爆で死んだ」と聞かされていた。父の兄が轢死したこと、母が井戸に身を投げたことは伏せられていた。今回の広島市教育委員会の「小学生に理解させるのは難しい」と同様の判断を父もしたのだろう。それに、彼の思いからすれば「原爆で死んだ」は嘘ではない。

 教育委員会が『はだしのゲン』の深い部分、ある意味で深すぎて子どもにわかりにくい部分も含め、限られた時間の授業教材として難しいという判断に一定の理解はできる。この父の話に例えれば「なぜ他人の骨を拾ってきたのか」「許可もなく駅前で行商するのはよくない」「電車に轢かれたことが被爆とどう関係があるのか」「母親が自分から子どもを残して死ぬなんて」「勲章は嬉しくないのか」といった質問や意見があったとして、現場すべての教員がすべての児童、それも低学年に説明するのは確かに難しいかもしれない。教育委員会の審議で意見として出た「浪曲はいまの児童になじみがない」というのも、私の父の話にある「ロバのパン屋」だろうか。

『はだしのゲン』は原爆の悲惨さを伝えると同時に、ときに強く、ときに醜い人間の生きざまを描いた漫画であり、文学である。刺激的な場面も多く、後半はイデオロギーの問題も含め複雑化する。各児童の発達の度合いや理解力がさまざまとするなら、あくまで「小学3年生」の教材と限定するなら、別のわかりやすい被爆体験記に置き換えることは致し方ないようにも思う。作中における天皇の扱いも当時の被害者の素朴な憎しみとは別に、これまたイデオロギーの問題がつきまとう。大人でも揉める話だ。

 しかし筆者の懸念はそこになく、『はだしのゲン』と原爆そのものを「なかったこと」にしようとする意図は本当にないのか、という点にある。かつて2012年、島根県松江市の小中学校における『はだしのゲン』閉架措置および貸し出し制限や、2013年の千代松大耕泉佐野市長の命による『はだしのゲン』学校図書館回収騒動のように、「間違った歴史認識」「差別的な表現が不適切」として『はだしのゲン』を読ませなくするだけでなく、原爆の悲惨さと愚かさ、そして当時を生きた人間の「たくましさ」と「したたかさ」まで「なかったこと」「恥ずべきこと」として消されてしまうことは避けなければならない。

『はだしのゲン』に限らず、水木しげる『総員玉砕せよ! 』や松本零士『音速雷撃隊』(戦場まんがシリーズ)、手塚治虫『紙の砦』、白土三平『泣き原』など、どれも戦争の悲惨さとともに人間の善と悪を描いている。その「悪」の部分が都合の悪い向きもあるのだろうが、悪を知らなければ善もまた知り得ない。善が善のままでなく、善が悪になることも、悪が善になることも戦争だ。報告通りの「総員玉砕」にしたいがために切腹や突撃を命じる上官たち、特攻する青年のために片道切符の出撃をするパイロットたち。醜さも美しさもある、それが人間だ。
こうした面でも、作品の良し悪しと児童教育に適しているかがイコールでないことは確かだろう。しかし、そうした特定の年齢の教材として適不適だったものが、一部の為政者やその関係者にとっての適不適となり、焚書のごとく「なかったこと」になることは、5月からG7広島サミットを開催する被爆国、日本にとってそれこそ恥ずべきことのように思う。

 決して筆者が被爆者の家族だから、当事者の子だからという話ではない。貧しい子どもたちのためにパンを盗んで19年間も投獄された『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャン、盗みに来たと勘違いして優しい狐を撃ち殺してしまった『ごんぎつね』の兵十と同様、身重で栄養失調ぎみの母親のために鯉を盗もうとするゲンの姿には、「泥棒は悪」という必罰や「無駄な行為」という冷笑では言い尽くせない人間主義が描かれている。

 また今回の件は特定の年齢に限った現場への配慮だと理解するにしても、『はだしのゲン』がもし「なかったこと」にされるなら、それはこれまで挙げた数々の作品も「醜い」「過激」「残酷」と拡大解釈され、ゆくゆくは戦争作品(とくに日本の敗戦や、その責任にまつわる話)はもちろん、あらゆる表現媒体も「不都合」とされ、筆者の父のような実体験、いや一般市民の多くの「人間」としての恥ずかしさや卑しさ、ときにその背景にある優しさという過去すら「なかったこと」にされてしまうだろう。

 美しい過去も醜い過去も、この先をよりよく生きるための財産である。不都合な過去もまた、懸命に生きようとした先人から受け継いだ、この国に生きる私たちの財産であることは忘れてはならない。むしろ今回の『はだしのゲン』問題は、それらをいま一度この国で問い直す、よい機会なのかもしれない。

【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員、出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。

2023.02.25 16:00 NEWSポストセブン

『はだしのゲン』と私 どんな過去も「なかったこと」にはできない


反戦や反原発を訴え、今も受け継がれるマンガ『はだしのゲン』。それは作者が伝えたかった全てを詰め込んだ“遺書”だったという。

 広島に落とされた原子爆弾で被爆した少年、中岡元=ゲンが、『はだしのゲン』の主人公だ。広島に住むゲンの家族は父親が戦争に反対するため非国民と呼ばれ、迫害されながら、力を合わせて生きている。昭和20年8月6日、広島に原爆が落ちる。ゲンは偶然助かったが、父と姉、弟を失う。何もかも破壊された地で、ゲンは家族や仲間と力を合わせ、貧困に耐え、被爆者差別や圧政と闘いながら明るく生きていく。

 この漫画は、作者の中沢啓治さんの自伝的作品だ。中沢さんは実際に広島で被爆し、家族や家を失った。家族構成も被爆の状況も、ゲンは中沢さんを投影する。『はだしのゲン』には、皮膚がずり落ち、目玉や内臓が飛び出し、ウジがわくなど凄惨な被爆者の描写があるが、中沢さんは実体験から、〈かなり表現をゆるめ、極力残酷さを薄めるようにしてかきました〉という。(引用は中沢さんの自伝『はだしのゲン わたしの遺書』朝日学生新聞社から)

 漫画家になった当初は原爆を題材にしなかった。〈漫画というものは楽しいもの〉という考えからだった。だが、被爆から21年後に母親が亡くなり、火葬の際に遺骨がなかったため、〈原爆というやつは、大事な大事なおふくろの骨の髄まで奪っていきやがるのか〉と怒り、原爆を描き始めた。

 週刊少年ジャンプで「はだしのゲン」の連載が始まったのは、1973年。翌年連載は中断し、石油危機の影響や出版社の意向でそのまま終了しかけたが、汐文社で単行本化し、朝日新聞が報じたこともあって生き返る。75年に「市民」誌で連載が再開し、その後、「文化評論」「教育評論」と漫画誌ではない媒体で連載が続いた。85年にゲンが画家を志し、東京に向かうところで連載は終わっている。

 単行本はベストセラーとなり、アニメ化、映画化され、約20カ国語に翻訳もされた。平和教育の副読本などにも使われている。

 中沢さんは、続編を考えていた。ゲンは東京で東京大空襲の孤児たちと仲間になり、絵画修業で訪れたフランスで原発問題に取り組むという構想だったが、中沢さんの目が白内障でよく見えなくなり、〈執筆を断念せざるをえませんでした〉。

 その後、中沢さんは肺がんに侵され、昨年12月73歳で亡くなった。自伝には、〈『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。わたしが伝えたいことは、すべてあの中にこめました〉とある。

週刊朝日 2013年8月9日号

『はだしのゲン』続編の舞台は原発大国フランスだった…

2013/08/06/ 07:00