見出し画像

火星の人類学者

二週間前に、自閉症スペクトラム障害の診断を受けた。それから、激しい嵐みたいな二週間を過ごした。どちらかというと、今まで努力していた模倣を完全にやめてみて、自閉的な自分に閉じこもることが多かった。外部刺激への過剰反応も、気分が良い反復行動も抑えなかった。心地よく感じる一方で、外への接触がより一層不安で恐ろしくなってしまい、たった5分の会話だけで3日間寝込まなければならないこともあった。多幸感あふれる幼児がえりを終わりにして、再び調整していかなければならない時期だろう。

テンプル・グランディンは、自分のことを「火星の人類学者」と表現した。自閉症である彼女にとって周囲の人の反応は、解読可能であるが永遠に彼女自身のものにはでにない。私はこの火星の人類学者という表現が大好きだ。そこには、孤立から自分を守る術がある。

火星人であるということは、エイリアンであるということ。ニューヨークにいるイギリス人であるということ。スティングが孤独に耐えながら孤高を気取ったように、孤立はしているが尊重されるべき基盤を有しているということだ。今は異星にいるだけで、異星に来てその文化を尊重するとしても、その郷がもつ全てのルールに傾倒しなければならないわけではない。相手に取ってそれが大切であり、異星で生きていくことに必要であると理解すれば従う。エイリアンである、という思考はアイデンティティと他への尊重を同時に守れる。

それから、人類学者であること。異星のルールは未だ解読中であるが、しかし全くの無理解で終わるものでもない。一部は解読可能であり、よく染み込むものもある。学者であるゆえに、外部からの論理的な視点が求められ、学者であればずっと、外部であることができる。仲間に入れずとも、学者的な観点からは仲間に入れないこと、常に客観的であることが重要になる。そして孤独は再度、孤高へと昇華される。

火星の人類学者であることは、孤高の人であることを許してくれる。不器用な走り方、奇妙なイントネーション、突然の癇癪などによる孤立や疎遠は、普通ではない自分が受けるべき罰ではなくなる。仲間はずれではなくて、そもそも同じものではなかった。私は火星の人類学者として、人をスキャンしその行動を模倣しつつ意味を学ぶ。できないことも多いが、それはもともと体の作りの違う異星人たる所以だ。

私が火星の人類学者として生きることは、未来への可能性もつかめる。その外部からの視点で、彼らを意味づけすることができると信じられるのだ。私は同じではないので、異なっているからこそ、彼らの行為を注意深く見ることができると信じたい。学ぶことは私に似合っている。

私は今や、完全に許された火星の人類学者として生きていくと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?