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脱北者として生きる1 (私を支えてくれた人々) #3

「人」という字は、人と人が支え合う姿が元になっていると聞いたことがあります。

また、「一人の人間が来るというのはとてもすごいことだ。その人の運命が来るということだから」というフレーズも聞いたことがあります。

私は来日後たくさんの優しい人に支えられて、ここまで歩いてくることができました🌟

脱北した当初は、日本に来さえすれば何もかも上手くいくという思い込みがありました。
しかし、前回書いた通り、これもまた一つのスタートでしかありません。

日本語が全く話せず、何のスキルも持たない来日直後の私が、満足にできることなど何一つなかったのです💧

脱北時の恐怖で自分をオープンにすることもできず、毎日震えていました。

日本には北朝鮮を支持する「朝鮮総連」という団体が存在し、拉致される危険がないとはいえないこともありました。

怯えている私が一人で暮らすのが心配だったのか、親戚が一緒に暮らさないか提案してきました。許可を得てないため詳しく明かす事はできませんが、親戚は高齢の女性(Aさん)でした。

Aさんは夫に先立たれ、息子さんと娘さんが結婚して家を出たため、一人、田舎で裕福な暮らしをしていました。

彼女のお誘いで私は日本に慣れるまでの数ヶ月の間、一緒に住むことになりました。

Aさんの息子さんは、高齢の母親の一人暮らしを心配していました。Aさんご自身が望んでいたこともあり、身の回りのお手伝いをするという条件で、一緒に住むことに同意してくれました。

Aさんとの生活は、私にとってたくさんの「初めて」をもたらしてくれました。 

スーパーでの買い物、バイキングレストランでの食事、クリーニング屋さんに洋服を出すこと…などなど。
日本に住んでいれば当たり前のことですが、私にとって初めての体験だったのです。
UNIQLOに初めて行ったのもこの頃です。“UNIQLOとは何ぞや”という点を理解するのは、ずいぶんと先のことですが。

今も忘れられないのが、
スーパーに買い物に行った際に「何か食べたいものあはある?」とジェスチャーで聞かれ、私がよくわからないので適当に指指したのが「とん平焼き」でした。
その日の夕食に出てきたとん平焼きのおいしさといったら…大げさではなく、衝撃を受けました。今は当時ほど感動しませんが、私にとって忘れられない思い出になりました🥰

バイキングでは仕組みがわからず、Aさんの説明も理解できず焦りました💦

夕方にはAさんと私はよく一緒にテレビを見ました。
特に日テレの「行列のできる相談所」「深イイ話」はほぼ毎週観ていました。
当時の司会は島田紳助さん。来日間もない時期の私の好きな芸能人ベストワンでした😂

他の番組を観るときも、あのタレントさんは離婚した、あのお笑い芸人さんは綺麗な女優さんと結婚した、などゴシップ情報まで教えてくれました!

Aさんとの会話やTVで聞いた言葉はすぐにメモして、辞書で調べました。
これが私の日本語習得の第一歩でした。

Aさんとの暮らしは辛いこともありました。
彼女は長年一人で暮らしたこともあり、生活の全てに独自のルールや細かい決まり事が作り上げられていたのです。
北朝鮮で生まれ育ち、Aさんと出会って間もない私が挑むには高すぎるハードルでした。当然、怒られる場面は出てきます💦

ただでさえ高いハードルを更に押し上げたのが、言葉が通じないことでした。
怒っていることはわかるけれど、何に対して怒っているのか理解できないことがしばしば。なんともいえない雰囲気になってしまい、冷や汗を流した記憶が蘇ってきます😓

もっとも、当時感じた辛さには、脱北に伴う精神的なダメージや、20代前半だった私の未熟さなどが少なくない割合でブレンドされていた気がします。

Aさんのおかげで私は少しずつ日本語が話せるようになり、日々の暮らしに少しずつ適応していきました。
書いて字の如く、右も左もわからない私を受け入れてくださったことに深く感謝しています。

Aさんと暮らしを続ける中、北朝鮮難民救援基金というNPO(脱北者の救出と来日後の生活を支援する団体)の人から電話がきました。
あなたは北朝鮮で大学中退までの学歴はあるけれど、それを証明する書類もないし、あったとしても北朝鮮での学歴は認めてもらえないらしい、というお話でした😢

この先、就職を目指すには最低でも高卒の学歴が必要であり、そのためにまずは中学校への入学を検討してはどうか、という提案でこの電話は締めくくられました。

外国出身かつ20代の私が昼間の学校に通うという選択肢はなく、選択肢は必然的に夜間中学校に絞られました。

どうも東京には夜間中学校が8ヶ所あるらしい(続く)

えー私、中学生になるのーー😵!?


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