石、砂を噛んで嗤う

#ウクライナ #千羽鶴

今回の件に限らず、何かあると話題に上がる「折鶴問題」。
戦禍や災害で苦しむ人々に、自分にも何か出来る事はないかと言う思いを、いきなり手元の行動を取る事にもっていきがちだが、先ず"知る"事から初めてみては如何であろうか。
折鶴問題が槍玉に上がるのは、俺が知っているだけでも一度や二度ではない。
少なくとも此度のウクライナ戦禍にあって、酷い境遇に陥った市民が大勢居ることを、何らかの形で知っているから折鶴を送る事を思い付いたのであるから、情報に触れる位置に居るのは疑い無く、折鶴が毎度議論や痛罵の肥やしになってしまっている事も、よしと思い立つ前に知る術や機会はあった筈だ。
そして、戦禍に巻き込まれる国家や人々に必要なのは、少なくとも折り紙では無いことも想像に難くない。
とは言え、せめてエールを、というその心意気そのものは我々日本人の素養であって、心意気を全く省みずに、紙屑を作って送るとは何事かと捲し立てるのもまた新たな火種をバラ撒く行為以外の何でも無いことに違いなく、正義を振りかざす不寛容な精神が戦争の根底で有ることを見落としたまま、他人を罵ったり嘲る事こそ、皮肉で滑稽でしかない。
無力なら、せめて祈りは心根で。ウクライナに平和を。

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