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「空間」と「時間」と「関係」について

三島由紀夫VS東大全共闘を見たので、この作品についての自分の解釈です。まったく違うよと思われる方が居たら申し訳ありません。

はじめに。私は学生運動についても詳しくないし、三島由紀夫についても詳しいほうではないけどすごく丁寧に解説が入れられていて、私のような人でも見やすいドキュメンタリー映画だった。

特に三島由紀夫氏と学生の一人である芥正彦氏の討論がすごく面白い。

三島氏も芥氏もかなり哲学的に語るので二人の世界の中で話しているように途中感じられる。話を私の脳みそに入れていくのが大変なくらいのハイペースで二人の話は進んでいく。この討論の中で「時間」と「空間」と「関係」についての話が出てくる。

お二方の話している内容をすべて汲み取れているか分からず解釈違いをしていたら申し訳ないのだが、これが難しいけど面白い部分で、この内容が「自己とは何か」について考えさせられる。

三島氏は「時間」があり「歴史」があるという風に語り、それに対して芥氏は、「時間」というものは存在せずに「関係」から歴史は生まれていったのだという風に語っている(ように見えた。)

「自己」私は誰であるか。について私は時間を取っ払うという概念は持ってなかったので芥氏の言葉は私の人生で初めて聞く内容ですごく新鮮だった。

芥氏は演劇をやっていて現在も活動されている。私も美大で演劇を学んで小劇場で舞台に立っていたので、彼の話を理解したいと思った。でも、理解できるのは三島氏の話す内容ばかりで芥氏の話は到底想像していなかった言葉で固定概念から大きく逸脱していた。

でも、例えば。

何もセットのない素舞台(ブラックボックス)の中で一人の役者が立っている。これを他者が見る。

観客はこの光景に対して「時間」も「空間」も「関係」も感じない。

そしてその役者の「名前」も分からない。

だけど確かにその役者には「自己」がある。そこから表現ができる。

そこから誰かもう一人の役者が現れて会話を始めるとする。

これで関係が生まれた。でも、まだ空間と時間は生まれていない。

現実世界も概念的にはこうなのじゃないかと芥氏が言っているように私には聞こえた。

『素舞台という空間があって、役者が立っている時間は5分だったから時間がある!』というのはすごく当たり前の思考だけど演劇や芸術の前でそれを言うのは野暮な感じがする。

三島氏は「日本に生まれて日本で育ち、日本人らしい恰好を自分はしている」と語り、日本という空間と日本で育った時間と他者との関係が自己であるという風に語ると最終的には芥氏は「退屈になったので帰ります」と討論会を出て行ってしまう。

お二人はお互いにずっと相手の事を面白いと思って討論しているように見えた。実際にそうだったんじゃないかと思う。

でもその「面白い」は両者の考える「自己」の認識がずっと絡み合わず、平行線だったから。三島氏は芥氏の「自己」についての考え方について知ろうとしていたのだと思う。芥氏は表現者である三島氏に対して「表現者として自己を縛っているのではないですか」と提起していたんじゃないかと。

この映画であの時代に学生達は左側から、三島氏は右側から日本を変えようとしていたという内容が出てきてとても納得できた。

「自己」の中に日本を大きく持っていた三島氏が右の思想に傾くのは当たり前だ。日本が揺らいでいるならば自己が揺らぐ。自己を正すときは、自己意識の根底の日本を正す。

学生全員が芥氏の意見ではないにしろ、まず「自己」があり、そこから関係が生まれていくと考えた学生は「関係に自己が壊されてしまいそうな事柄があるならば、関係に対処しよう」としたのではないかと思う。

自分が生まれた国を「他」や「関係」とする考えは急に飲み込めるものではない。そう考える者から見ればそれは左翼と見られるのだろう。

「右翼」「左翼」「三島由紀夫」「東大全共闘」という過去の歴史上の人物や立場の対立が気になってこの映画を見てみることを選んだが、見た後にはこの討論のほとんどすべてが自分とは何でどうするべきかを考えさせられる。

この映画には「名前」が出ていない観衆の一人ひとりが、あの時代には自己とそれを関係作る他に対して考えを持ち、行動に移していた。それは、時に過激で尊敬できるものではないのだが、その内的な思想は、私の人生で考えたことのないことを多く含んでいてとてもずっしりと脳みそに効いた。

名前、時間、空間、関係。そして自己。

右や左で括るのはもったいない話がこの映画にはつまっていた。

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