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表現すること
日々、駄文を量産してはいる。新しい記事を書いたり、書かなかったりだけど、下書きは増える。
歳を重ねるごとに…と言えばいいのか、社会の変化を感じるたびに…と言えばいいのか、表現することへの恐怖が多くなっている。
書き上げた文章を公表することに対して、酷く臆病になった。
あまりに偏見がすぎるような、別の視点を失っているかのような気がする。
いるかどうかもわからないクレーマーにビクビクしながら書いた文章は、どっちつかずで歯切れの悪いものになってしまう。
それならいっそのこと、個人的な偏見で塗り固めた文章を書いてみる。
強烈な文章は自分でも書いていて楽しい。
けど、それはそれで「誰かを傷つけているのでは‥?」という自身の良心の呵責に耐えられなくなる。
結果として、私が書く文章は被害妄想と自虐を中心とした妄言奇言のオンパレードになる。
ハナシの被害者は自分だし、一人で喚いてるだけなら迷惑はかけないだろう。
もちろん、それはそれでどうなの?と思うけど。
表現することは楽しいし、多くの人に知ってもらいたい。
しかし、それで誰かを傷つけたくはないし、問題も起こしたくない。
二律背反だ。
そんなことを思っていても、どんな表現だって結局は「誰か」に不快感を与えてしまうから、いっそ表現することをやめてしまおうかとも思う。
しかし、それでは表現に対する欲求は溜まったまま、宙に浮いてしまう。
「表現する」とは一体何なのだろうか。
社会がインターネットと出会ってから、多くの人がSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)と付き合うようになってから、
私たちは「表現する」ことの意味を考えなくなったのではないか?
タイトルや見出しはただセンセーショナルになっていく。
強烈なタイトルは人を集めるが、ミスリーディングを併発する。
あるいは表現を単純化する。
好き・嫌いの中間もあるのに、それは無いものであるかのように振る舞う。
「伝える手段」が幾ら増えたとて、人と人がわかり合うことは相変わらず困難だ。むしろ難しくになっている気がする。
「感情を伝えるための装置」は、溢れ出る個人の感情を「生」のままで伝える。
短い文章では思いの真意は伝わらず。
写真や映像による情報は見る人の欲望だけを拡大していく。
その過程で「感情を伝えるための装置」は人間のエゴイスティックな側面ばかりを強化していく。
伝える手段があるから、伝わると勝手に思っている。
しかしインターネット時代の表現は、伝えることの難しさを露呈させた。
インターネットやSNSは「情報」を伝えることで、人と人がよりわかり合うためのツールで、それを手助けする役割があるはずだった。
だが、実際にはどうだろうか。
今、我々は改めて表現することの意味を議論するべきかもしれない。
そして思った以上に、深刻な内容になって自分でも驚いている。
やっぱり「表現」することは難しい。
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