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昨日の氷の夢

 仲の良かった彼女が捧げられてしまう。腹には彼女が愛した人の子供だって宿っているのに。村の老害どもは、それもろとも柱にしてしまおうとしている。
 彼女は歌った。
 古い歌は神々の機嫌をよくしてくれると信じられている。氷の浮かぶ海上に身を躍らせた彼女の口から古い歌が聞こえる。
 脳天を割るような音が轟く。
 彼女が歌ったのは献歌ではなかった。
 それは村の中で氷の歌と呼ばれる、どこかから生まれてきた不思議な歌だった。古い歌によく似た旋律で、だが酷く拙く聞こえる、ちぐはぐな音の羅列。
 彼女の雷のごとき怒号で奏でられた氷の歌は、海に流れる氷塊を呼び寄せた。
 氷の歌に呼ばれた流氷はあっという間に村まで競りあがり、村の社会性を根こそぎひっくり返して壊滅させた。流氷は、海面に叩きつけられる彼女の体をめちゃくちゃに折り、腹を裂いた。
 彼女が落ちるはずだった場所には、小さな氷塊がぷかぷか浮かんでいるだけになった。その上で、柔らかでぬくい赤ん坊が眠っていた。
 砕氷の残響に彼女の狂った嘲笑が混ざり鼓膜を揺らし、頭の中まで侵してぐずぐずに溶けていくようだった。
 力の入らない両足で赤ん坊の下へと歩き、指先でその頬に触れたとき、天を割らんばかりの笑声は、自分の喉から出ていたのだと知った。


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