常識過多の令和時代、 という言い訳
「先人の常識が私を襲い、蹂躙する。そこに私は無かった。」
1日4〜5時間のライブ配信活動と、立ち上げたばかりのアパレル事業を、余裕を持って継続できるほど私のキャパは広くないようだ。
日曜の昼下がり、洋楽をかけ、紅茶を飲みながら本を読むと、久々に休息を得たような感じがする。
時にはこのように頭をリセットし、自分の現在値を確認したり、自分が生きていることを噛み締める時間も必要だと思う。
今、「笑わずに生きるなんて」(著:赤塚不二夫)を読んでいる。
この本は赤塚氏の自叙伝であり、彼がどのような人生を歩んだかが記されている。
ゼミの教授から卒業時、「泥臭く生きてください」というメッセージと共にいただいた本だ。
私たちが生きる令和の時代にはたくさんの常識がある。それほどまでに日本は豊かなのだ。だがこの本を読んでいると、他人の成功体験や企業が作り出した常識にあまりにも影響されているのだと気づく。
常識は時代が築き上げた先人の歩みの結果と言える。それは良い結果をもたらすときもある。
例えば、綺麗な水を飲めるという常識は、飲めない環境に対して違和感を与え、飲ませようとする動きに良い作用をもたらす。
しかし常識は挑戦する人の不安に漬け込み、足を引っ張る。特にインターネットが普及し情報が多くなった分、それはやめた方が良いだの、不安を解消するにはここに行った方が良いだの、不安を煽るような情報に触れる機会が多くなった。
そしてそれを常識と思い込み、やっぱりやめとこう、という判断に至る。
だがそれは違うと言うことを私は言いたい。今の私はできていないかもしれないが、それは違うと言いたい。
情報が多くなったということは、不安に惑わされず挑戦した人の情報も多くなったということだ。問題は私自身がそういった情報を取ろうと努力しているかということ。
本がある、有料の情報サービスがある、常識を超えた知人がいる。
そこに出会うかどうかは私次第だ。
「先人の常識が私を襲い、蹂躙する。そこに私は無かった。」
これは言い訳だ。
常識と色々な方向から向き合い、自分が錬磨され、そしてより良い情報を掴み、それを自分の新たな常識としていく。その歩みは泥臭く、タフネスなものになるだろう。
それでいいのだ。それで。
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