ちゃど史。vol.1 出生~中学
まずはオフィシャルプロフィールから。
【舞書家Chad.】【読み:まいしょ-か ちゃど】
➊踊りながら書く!世界唯一【舞書パフォーマンス】
➋瞳を5秒みてインスピレーションで言葉を書く!【書き贈り】
➌ロゴ・看板・壁画なんでも書く(描く)!【デザイン】
➍妊娠中のお腹に描く!【マタニティアート】
➎夢を描く!しゃべる!【講演・ワークショップ】
を、生業としてなんとか生きています。
【略歴】
▼メディア歴
▼主な公演実績
‥とちょっとシュッとした方向を目指して作ったオフィシャルプロフィール
ですが
カッコつけより 素も出したい 一周回ってそんな年頃26歳
SNSではなかなか出せないような等身大を綴れるプラットフォームがほしいなあと note はじめてみました。
文章書くのは得意ではないけども ちょっとでも
こいつおもろいやん わたしもちょっと冒険してみようかな
そう思ってもらえる何かになれたら、幸。
-出生時- 母亡くなる
いきなりちょっとヘビーな見出しになっちゃってますが、
わたしが生まれたとき、出血多量で母は亡くなったそうです。30歳でした。
「仁美ちゃん、可愛い」と、言ったとか言ってないとか。
わたしを胸に抱くことなく、産後即座に緊急搬送された母は、そのまま空へ。
生後まもないわたしは病院に一人、家に引き取られたのは母の葬儀が終わった5日後のことやったそうです。
「仁美ちゃんが産まれたせいで恵子ちゃん(母)は死んだんや」
という言葉を、母方の祖父母から言われたとか言われてないとか。
詳しいことは教えてくれないけど、とにかく、帰って一人泣き叫び続けた父にとって「お父ちゃんは一生許さない」言葉だったらしい。
ちなみに
納棺で 母の乳首に まだ赤ちゃんのわたしの口を近づけたとき、もう”遺体”である母の胸から、母乳があふれ出たそうな。
「よっぽど育てたかったんじゃなと思った」
23歳になったとき 初めて父が語ってくれた母でした
・
そんなこんなで
母方の家にはあまり連れて行かれることもなく 父方の家で祖父母と4人家族で育てられましたとさ。
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そんな実家が コチラ!
どーん
竹から産まれたかぐや姫 ごとく 竹藪の中にあるぽつんと我が家は
超絶おいしいタケノコの里で
こんな野山を一人で毎日遊んでいたわたしはすくすくと育ち
「わたしは山の姫ぞ!」(もしくは「かぐや姫ぞ!」)
と結構本気で思って育ちました。
(どっちみち姫なんかーい)
憧れの世界観はもののけ姫と犬夜叉。中二病の出来上がりです。
人間が好き勝手するから環境は壊れるんだ!とか思ってました。
なんで人間なんか生まれたんだ!とか真剣に思ってました。(笑)
そんな、奔放でちょっとセンチメンタルな小学校時代
「おい男子!」って男子追いかけまわすような謎の男勝り系キャラですくすくと育ちました。
-もう中学生- 陰キャの頂点に君臨するの巻
しかしそんな折の中学進学
平和だった2クラスの小学校から5クラスの中学校になり、追いかけまわしていた男子たちも 他校の流入によってませたりちょい悪になってゆく時期。
環境適応できなかったわたしは 同時に視力も著しく低下、
山で培われた2.0の自慢視力から一転、ザ・メガネちゃんになってしまった
その上、さらに二次災害として なぜか目が腫れて一重まぶたになり
世界がメガネの中に閉じ込められたような感覚に陥った。
の結果、
ヒトと話すのが怖くなり、どんどんメガネの内側に閉じこもる世界。
すると ヒトの表情筋って衰えるのだ
あく口のサイズ:縦横1㎝内。
口を開く時間:弁当タイムと、放課後の吹奏楽で楽器を吹くとき。
結果:
①上唇と下唇がくっついて、口をひらくときにパリパリとチャックのようにひらく
②声がとにかく小さいため、出欠で叫んでも返事をしていないことになっている。
という現象が起きる。
そのときの様子がこれだ
世界は自分の机のみ。友達は本のみ。
だけどずっと座ってると「あ、さどさん友達いないんや」って思われるから
できるだけトイレに長いこと逃げる。
けどトイレに長くいると 女子トイレの洗面台から「トイレ長くねー?(クスクス)」みたいな声が聞こえてくるので、声が去るのを出来るだけ待ってから 廊下のできるだけ端っこをゆっくり歩いて教室の定位置に戻る。
戻ったら、机より上に顔をあげないように、即座に本を取り出して、読む!ひたすら、読む!
(ああ早く ”魔の”「休み時間」なんて終わってくれ・・!)
そうしてると、
ただでさえ 勉強以外にやることがなくて成績が良いものを、ムダに「がり勉ですよ」感が演出されてしまい、
「あ、この人じゃろー?テストで100点だったのー!」ってどっかで言われてる声とか 「さどさんって話しかけんなオーラすごいよね」とか 「さどさんって笑うん?(笑)」とか 色々聞こえてくる。
口が退化する分、聴覚は進化したらしい。
【人生は50:50】
だけども そんな中で学んだことがある。
『人生は50:50』(フィフティフィフティ:当時は「クイズ!ミリオネア」が流行っていた)ということだ。
①どんな人間でも、何をしても、万人が好いてくれるわけじゃない。嫌うヤツもいれば、好いてくれるヤツもいる。
(幸い、片手で数えるくらいの友達はいて、帰り道だけは、一緒に大笑いして帰れた。)
②「♪人生楽ありゃ苦もあるさ~」(おばあちゃんはテレビで「水戸黄門」をよく見ていたのだが、そのテーマ曲。)というのなら苦あれば楽ありなハズ!
そしておかげさまで、
「言葉」の世界に対する造詣は深まり、国語科の恩師の良い指導のもと、「作文」に目覚めた。
「自分の、この、なんともいえない気持ちをピタッと表現できるピースはなんだろう」と、紡いでいくような作業が好きになり、
「笑うこと」という作文を書いた。【いつでもどこでも自分らしく笑えるようになりたい】という文だった。何かで1位か2位の賞を取った。ちょっと自信になった。
-華の高校デビュー-
そんな陰キャ生活から3年後がコチラ。
「なんということでしょう~」劇的ビフォーアフターだ。
\ なっ、なにが…!(; ・`д・´) !/
そんなあなたに大事なキーワード
【「なりたい」はツクれる!】
そう、3年で人はここまで変われるということ。
①一重になってしまったまぶたをアイプチで二重にし、②ストパーを当て、③ティーンズファッション誌の表情筋コラムを見て顔を鍛え④笑顔の練習をし、⑤「普通」にコミュニケーションをとっているみんなを研究し、⑥演じる!
(笑)
どうやって挨拶してるんだろう、あ、自分からおはようって言うのか、とか。「明るい人」を”演じる”ことで、それが次第に自分になっていった。
外側から自信をもてる自分に作っていたから、怖くはなかった。中学とは違う環境。中学の自分を知ってる人は少ない。
要ったのは、少し、いや、かなりの勇気。
けど、待っていたのは、初めて聞く「あの子可愛い~!♡」の声だった。
そこからスタートした、高校生活3年間はあっという間。クラスでも部活でも職員室でも、「わたし」でいられた幸せな時間。
吹奏楽部では部長をやって、初めて野球部や先生を巻き込んだショーケースを文化祭でつくった。軽音楽部で花形といわれるギターもやってみた。友達の多いバスケ部に遊びに行って、吹奏楽の部長をしながらお茶だけくんでたまーに試合についていってスコアをつけるという”マネージャーもどき”にもなった。
人生初のモテキも到来。
初めて告られたときは、ビックリしすぎて、自分に自信がなさすぎて、ゴメンナサイしてしまったけど、その後おつきあいした初めての彼は、それはそれは大好きで素敵な人でした。
つづきは続編へ
と、長くなりすぎそうなので、一旦このへんで。
(ここまで一旦書いてから2年間放置してましたw)
つづきは…
大学二重学籍
自分探しまくる旅の巻
ホームレス女子大生
路上詩人デビュー
路上で1か月50万チャレンジ
大学2校自主退学
フリーランスの道へ
みたいな感じになっていきますので、
『続き楽しみにしてるよ!』といってくださる変わった方は、
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またね!
みなさまからのサポート=愛は、大切に日々の活動(表現活動、生命維持活動、事業資金、地域活動)に充てさせていただきます。 (※たとえうまい棒ひとつ、毎度”これは本当に必要なのか?皆さんからの愛を使っていいものか…⁉”とサドは毎度真剣に考えています|:3ミ)