日本の美意識7 幽玄
「自然をもとにした日本の美意識」幽玄
「幽玄」の語は、古くは中国後漢時代の『宝蔵論』や、『後漢書(240年ごろ)』などに用例がみられるが、主には仏教や老荘思想の用語で、その意味は「哲理や仏教のさとりの境地が深遠、微妙であること」(鈴木貞美・岩井茂樹 編『わび・さび・幽玄 ―「日本的なるもの」への道程』)である。
日本では上記のような仏法の用法で、最澄の『一心金剛解体秘訣』に「諸法幽玄之妙」という表現がみられる。
思想的用語に対して、情緒的美意識で、目に見えないものをあらわす語としても用いられる。そのはじめは壬生忠岑(平安中期)の『和歌体十種』における「余情体」「高情体」であるとされる。
藤原俊成(1114~1204)は「幽玄は「あはれ」や「優しさ」や「艶」といった王朝の美意識をベースにし、それを深めたもの。」とし、 幽玄を歌論の中心とした。ただし俊成自身は、幽玄について明確な説明などを記してはおらず、「よき歌」の評にその意図をみることができる
西村清和『幽玄とさびの美学 日本的美意識論再考』に以下のように述べらる
『慈鎮和尚歌合』十禅師・十五番跋、建久9(1198)年頃から
「おほかたは、歌はかならずしもをかしきふしをいひ、事の理をいひきらんとせざれども、もとより詠歌といひて、ただ詠みあげるうたにも、うち詠めたるにも、何となく艶にも幽玄にもきこゆる事あるなるべし。よき歌になりぬれば、その詞姿のほかに、景気のそひたるやうなる事のあるにや。たとへば、春花のあたりに霞のたなびき、秋月の前に鹿のこゑをきき、垣根の梅に春のにほひ、嶺の紅葉にしぐれのうちそそぎなどするやうなる事の、うかびてそへるなり。つねに申すやうには侍れど、かの「月やあらぬ春やむかしの」といひ、「むすぶ手のしづくににごる」などいへる、何となくめでたくきこゆるなり」
をあげ、俊成において幽玄とは、直接五感にうったえる詞すがたを超えたところに現れる景気であり、そのような幽玄を感じるのがよき歌のひとつと考えられること、が述べられる
鴨長明(1155?~1216)は幽玄は余情にみることができると述べる。
いはむや幽玄の体、まず名を聞くより惑ひぬべし。自らもいと心得ねことなれば、定かに申すべし共覚え侍らねど、よく境に入れる人々の申されし趣は、詮はただ詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景色なるべし。心にも理深く詞にも艶極まりぬれば、これらの徳は自ら備わるにこそ。たとへば、秋の夕暮れ空の気色は、色もなく声もなし。いづくにいかなる故あるべしとも覚えねど、すずろに涙こぼるるごとし。『無名抄』
幽玄は言葉や形であらわすことができないが、秋の夕暮れに感じるような(寂しいような切ないような)しみじみとした心情である。そしてそれは余韻のようにジワジワと広がり残る心情で、それを「余情」とあらわす。と述べる。長明は、目には見えない心の奥深さである「幽玄」を「余情」に認識した。
秋の夕暮れに感じる(寂しいような切ないような)しみじみとした心情は、心敬が述べる「冷え」の境地と推察する。
長明は、冷えについては述べていないが、そのような心持ちを感じとっていたのだろう。
余白表現
目に見えあらわすことができない幽玄は、日本美術でみられる「余白」を生んだと考える。吉村貞司は余白とは「必要ぎりぎりのものだけを描いて、あとは空白にしておく。(中略)不要のものを削りに削って行く。残るのはギリギリの必然性である。」
と述べる。
吉村貞司『日本美の特質』SD選書 1967年 P178余白の構造
余白的な表現である雲霧法を用いた絵画は中国北方画家がはじめたとする。この雲霧法の雲は、特に道教や民族的宗教では神聖にして欠くことのできないものであり、日本の余白的な表現とは内容が異なるとする。
また、自然の一部を描き他は霧の中に消えるような表現は、弱さやはかなさ、切なさのような詩的情緒性を強調するものであるが、ごまかしがききやすく、それにばかり頼ってしまうと美の荒廃へおちいってしまうとも述べる。
必要ぎりぎりのものと空白から、見えていないものをみせ感じさせるという表現は、鑑賞者には経験や知識といったテクニックを要するだろう。余白表現に慣れている者は、それが単なる空白や描き漏れなどではなく、そこには個々人の思い出や面影(心に浮かぶ残像)、あるいは、しみじみと心に沁みる情緒があり、それらをよびおこすための空間や時間であるということを認識できる。そして、苦も無く、そこに何かを感じることができるだろう。逆に余白表現に慣れていない者は、そこに何かを見出すのは困難かもしれない。特にシンメトリー表現に囲まれた者からは、余白に物足りなさを感じてしまうだろう。
柿右衛門が絵付けをした赤絵の陶磁器は、いかにも日本人らしい余白が活きたものだ。しかしそれが西洋にわたり、マイセンの職人が模倣したものが残っているが、日本人が好んだ余白部分には、丁寧に別のモチーフが描き加えられている。そのようなものからも、「余白」は、「幽玄」を心得た日本独特の表現であると感じる。
見えないものにも何かを感じることは、日本人以外にも世界中の人々は普通になしているだろう。しかし、その感じることを余白というかたちで、あえて表現した、またはその表現を心地よく感じたことは、珍しいことであり、日本的感性のあらわれとして、余白が生まれたのは大きな出来事であったと考える。
面影を求める表現として、絵画や工芸品にみられる「留守模様」がある。留守模様は描かれたモチーフから、そこにあらわされるべき人物や対象、あるいはストーリーを想像するもので、西洋美術にみられるアトリビュートのようなものである。二者の大きな違いは、アトリビュートは同画面に対象をともに描くことで、それが何者であるかを示す解説のような役割であり、対して、留守文様は、主役となるものを描かず、鑑賞者が様々に想像をめぐらせるための題材とみることができようか。
留守模様においては、題材から、具体的な対象を想像するが、余白は、感情や時間といった見えないものを心に感じる点が大きなちがいだろう。
冷え
権大僧都の位を得たほどの高僧であった心敬(1406~1475)は、目に見えぬ幽玄を更に研ぎ澄ませたものとし、「冷え」と表した。
昔の歌仙にある人の、歌をばいかやうに詠むべき物ぞと尋ね侍れば、「枯野のすすき、有明の月」と答え侍り。これは言わぬ所に心をかけ、冷え寂びたるかたを悟り知れとなり。『ささめごと』
「枯野のすすき、有明の月」から、言葉としてあらわせない感じるものがあり、それを「冷え寂び」として悟った。という。枯野のすすき、有明の月からは、寂しく悲し気な秋の情景が浮かぶ。そしてそこに感じる心が「冷え寂び」ということだが、この「冷え」は、体感温度の冷えるや寒いという意味ではなく、仏の境地に至るような崇高な心持や静寂感を示している。冷え寂びは、清らかで静寂というような情緒と解釈する。
さらに、心敬は
氷ばかり艶なるはなし。刈田の原などの朝の薄氷、ふりたる檜皮の軒などの氷柱、枯野の草木など露霜の閉じたる風情、おもしろくも艶のもはべらずや『ひとりごと』
艶の対象に氷をあげる。心敬のえん(艶)とは、「穏やかに静かに澄んだ詩的境地のこと」であり、氷こそ艶なものの最上であり、氷をみて澄んだ清浄な心持ちになる。そしてそれが心敬の考える艶の最上級の境地であるという。
菅基久子は『心敬 宗教と芸術』で、心敬の「艶」を以下に述べる
「「えん」は自立した歌句の表現」それ自体が持っているような美の価値ではなく、作句の主体の内面的な在りようや思惟に重きを置いた、いわば主体の精神状況に即した価値である」と述べる。さらに、「心敬の「えん」は心の「えん」であり、姿や言葉に表れた優美を意味する「えん」とは異なる、精神性・道徳性を備えた「えん」である」と述べる。俊成の艶は平安のあはれの延長のようなものであったのに対し、心敬はそれを更に深めたものとしていたと考える。
俊成が歌にみる「幽玄」を、長明は「余情」とあらわし、目にはみえない感じる心は、余情に現れるとした。そして、その感じる心の一端を、心敬は「冷え」と言いあらわし、冷えの感覚は最上級の境地であると述べた。「冷え」は、先人らが「艶」とあらわしていた美意識の一端を心敬の言い方であらわしたものである。艶=冷え ではなく、艶の感覚を細分化するなら、そこに冷えがある。
俊成が「「幽玄」は、「あはれ」や「優しさ」や「艶」といった王朝の美意識をベースにし、それを深めたものといえる。(西村)」とするなら、極端ではあるが「艶≒幽玄(冷えを含む)」と考えられるのではないだろうか。つまり、幽玄のように目には見えないが、余情とし感じられる情緒のうち、清浄なる感覚(冷え)があり、それは最高、最上の感覚であると心敬は考えた。
また、心敬は、冷えを感じる対象も「冷え」とあらわした。冷えたるものは水や月などがあり、氷は、冷えたるものの最上のものなのだという。
菅基久子『月と氷のシンボリズム―心敬のえん』
「冷え」を論じるにあたり、心敬の「水」「月」そして水が変化した「氷」への見解を述べる。その中で、心敬は水や氷や月は同質のものとしてとらえ、澄んだもの、清浄なるものとしてみていたと述べる。仏教思想での水は「汚れをとりさった清らなもの」であり、月も「心の清らかさ」をみるが、その捉え方は仏道にあった心敬の思想観とも無関係ではないだろう。
ここから、心敬の「冷え」とは、目に見えない心に感じる清浄なる感覚と理解する。