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突然訪れる 論理の崖

「あれ、俺、何喋ればいいんだっけ?」

皆さんはこんな経験はないだろうか。

議論している時に、相手の意見を聞いて、「あ、これについてはこう思うな」と気づきを得たとする。

そして、いざ「ここについては〇〇だと思う。というのも〜」と喋り始めると、突然文章が出て来なくなる

議論は明らかに自分のターンだから言葉を続けなければいけないのだが、何をしゃべっていいのか全くわからなくなってしまう。慌てて自分が今までに喋ってたことを思い出そうとするが、全然思い出せない。

流石に社会人経験を積む中でこの状態になる頻度は減ったが、昔はよくこの状態に陥っていた。そもそも主張に対する違和感は感じていても、その違和感がうまく言葉に落とし込めずに終わってしまうこともしばしばだった。

この状態を僕は「論理の崖」と(勝手に)呼んでる。自分の頼りの綱である主張が忽然と姿を消してしまうのだ。

大学時代、「違和感を感じても言語化できないので議論に参加できない」という悩みを持つ同期が僕の他にもいたので、そう珍しいことではないのではないか。

下書きのまま世に出ることがないブログ記事

少し話が逸れるが、僕は過去にも何回かブログをつけている。実はブログ自体は高校時代からやっている。ポエミーな内容も多く、読み返すと「よくまあこんなことが書けたなあ...」と赤面することもしばしばだ。

そんなこんなで10年近く不定期にブログを書いているわけなのだが、どのブログにも共通するのが、「下書きが多い」ということだ。

なんとなく書きたいテーマを思いついたとしても、いざ書き出してみると、「この主張を通すにはもっと理論的な補足が必要になるな...」「こんな反対意見もあるから、それに対する反駁もしなきゃいけないな...」などと余計なことを考えてしまい、結局思いついたフレーズに関する文章だけ書き殴ってそのまま放置してしまうことが多い。

そのまま放置された意見は自分の論陣としてブラッシュアップされないままなので、結局自分の意見として吸収されることなく、公開されるでもなく、ただただデータベースの片隅に追いやられてしまっている。

実はこのように書いている今も、「今回書きたい」と思って書き始めたことはあらかた書き終わってしまっている。しかし、この記事自体は起承転結でいうところの「承」までしか終えられていない。これから結びにどうやって持っていくか....などを考え始めると複数の着地方法が思いついてしまう。そしてそれに対する論理の検証を行なっているうちに、どの着地が一番いいのかわからなくなってしまい、放置してしまうのだ。

もっと言うなら、前段落の「実はこのように書いている今も〜」という言い回しも過去のnote記事で利用しており、「過去の記事と同じ表現使ってやがる。こいつの文章は使い回しが多くて一辺倒だな」と思われてしまうんじゃないか...?などと、文章の書き方についてもいちいち考え込んでしまう。それが結局"面倒臭い"につながるわけだ。LINEの返信が遅い友人が「返信の文章を考え込んでしまい、結局後回しにしてしまう」と言っていたが、まさにその考えに似ている。

論理の崖にぶち当たる原因とは

さて、ここまで取り止めもなく僕のブログに対するスタンスを述べてきたが、ここに論理の崖に立たされる人の大きなヒントが隠されている。それは、「余計なことまで考えすぎている」ということだ。ここでいう余計なこととは、「自身の意見に対する反芻」「文章の表現」である。

自分の中で反論できたとしても...

議論をする・ブログ記事を書くのように自分の意見を述べるときに求められるのは、自分が何を考えているのかを相手に適切に伝えることである。

それなのに、自分の意見を一度推敲してから表明するのは馬鹿げている。それならばそもそも議論をする必要がないからだ。

例えば、「1人専用焼肉店は儲かるので自社でも事業展開したい」というアイディアを思いついたとして、「でも既にチェーン展開を開始している会社があるから無理だな...」と勝手に自分の中で反論して、結局意見を表明しなかったとする。

でも、もしその場で1人専用焼肉の話をしていたら、「確かに首都圏ではレッドオーシャンだけど、中国地方ではまだ有力なチェーンはいないからいけるんじゃない?」などの意見が出て、新規事業として立ち上がるかもしれない。

このように話すことで話が発展する可能性があるにも関わらず自己完結して話さない。それこそが罪なのだ。

詩を作る労力を割いて文章を作っている自覚を持て

また、「文章の表現」についても「自分が何を考えているのかを相手に適切に伝える」という原則に則ると納得するだろう。

文章の表現にこだわりすぎるのは、言い換えると詩を書く時と同じくらいの表現の労力を割いて論文を書いているのと同じなのだ。

もちろん文章が美しいに越したことはない。僕も大学受験の小論文では決め台詞から逆算して文章を構築していた。

しかし、果たして議論などのいわゆる日常会話で自分の言葉を洗練させるべきかと言うとそんなことはない。betterではあるがmustではない、というやつだ。

議論を文字起こししてみよう

それでも「何かクリティカルなことを言わなきゃいけない」「反論の余地がない完璧な言葉を発さなきゃいけない」という思いから抜け出せない人は、一度自分がすごいなと思う議論を文字に起こしてみることをお勧めする。

すると、一見論理的にスラスラ話しているように見える人も実は同じことを表現を変えて繰り返しているだけだったり、そもそも論理が通っていないこともある。また、論理の型を繰り返し使っているだけということがお分かりいただけると思う。

論理が通ってない会話を参考にしなさい、と言っているわけではないが、ここでわかっておくべきことは、完璧に言葉がまとまっていなくても議論に参加しても良いし、未完成な言葉であっても発言した方がいいと言うことだ。

そして、その思い込みを取り払うことで、始めて論理の崖は姿を消す。崖を作っていたのは自分自身だったのだ。ただただ自分が完璧を目指すあまり、脳内PCがフリーズしてしまっているだけなのだ。

※言語化と完璧の関係性については以前にも記事にしているので気になった方は読んでみてください。

そして、思い込みを捨て去って初めて、論理思考トレーニングなどの喋りの"型"は効果を発揮してくる。これらについても記事を別にして、自分の考え方をまとめてみたいと思う。


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