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とんぼ玉が生まれる過程は、星が生まれる過程に似ている。

岡山県で暮らすと、自然とガラス好きになるのかもしれない。
倉敷ガラスを始め、身の回りに手作りのガラス製品がいつもある。

岡山駅から市電に乗って城下で降りれば、数々の古代ガラスを所蔵するオリエント美術館も近い。
遥かいにしえから変わらぬ姿で館内に並ぶガラス達は、4000年の時がたったことなど気にも留めていないのだろう。
悠久とはまさにこのことだと思う。

まだ吹きガラスがこの世に存在していなかった頃、コアガラスやとんぼ玉が盛んに作られていたそうだ。
この二つの製法については専門家に委ねるが、一目見れば非常な手間と時間がかかっていることは明らかで、それだけに宝石より貴重。
さらに作った側と所有していた側、双方によって込められた祈りのようなものも伝わってくる。

そんなコアガラスやとんぼ玉を現代に再び甦らせているお二人の作家の展示を観てきた。
かねてから想像はしていたものの、いざ実物を目にしてみると、思っていたよりも遥かに精緻で繊細で、ガラス芸術の粋ここに極まれりといった風格に息を呑む。

そしてやはり祈りが感じられるのだ。
華やかな現代の百貨店に展示されているにも関わらず、子々孫々末永く良くありますようにという太古からの祈りが、ひとつ一つの作品を通して伝わってくる。

何故だろう。
ガラスという素材は、人類が地球上に現れた時から抱き続けている願いを最も込めやすい物質であるような気がする。
" 我々は弱い。だから、こんなにも美しい永遠を生み出すのだ "
ガラス作品を前にすると、いつもそんな囁きを聞く。

ビロード貼りの台に並べられた作品の中から、とんぼ玉をひとつ手に取った。
大きさは2センチ弱、柄は南天。
玉全体に散りばめられた赤い実はもちろん、実の周りに施された何枚もの葉も全てガラスで描かれているという。
緑の微妙なグラデーションさえも色ガラスで表現されていると聞いて、思わず感嘆の声が漏れた。

そっと手のひらに乗せれば艶やかに光り、結えられた臙脂の絹の緒の控えめな光沢が、ガラスの輝きをさらに惹きたてている。

このとんぼ玉を手にとる数時間前、私は大学病院で目の精密検査を受けていた。
仕事で酷使したためか左目にダメージが生じているとの説明を医師から受け、少なからぬ不安を感じていた。

その後とあるお寺の門を叩き、対応してくれた住職に父のために供養のお経をあげて欲しいと伝えた。
亡くなった父のことがずっと気になり、せめて自分にできることはやりたいんです、後悔ばかり残っているんです、と話しているうちに涙が出てきた。

それからお寺を後にして、繁華街の雑踏を抜けた先の百貨店の一角で、私はとんぼ玉を手に取ったのだった。

南天は、難を転ずる。
我が身をバーナーの炎で焼かれつつも、やがてひんやりと鎮まり、今私の手の上で楽しく軽やかに踊る赤い実たちよ。

ガラス作品が生まれる過程は、宇宙で星が生まれる過程に似ている。
だから私達の願いに近いのかもしれない。

だから、私達がより良くありますようにと、共に祈ってくれるのかもしれない。



※ 小暮紀一・林裕子 コアガラス・とんぼ玉 展
 2024,6,19,wed. ~25,tue.   大丸神戸店 7階

林裕子 作

※ サムネの写真も作中の作家さんのものです。

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