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建築が凶器になってはいけない。

今の自分に何が書けるだろうか、とずっと考えている。
書きたいことはたくさんある。たくさんあり過ぎて、団子になって押し合いへし合いしているくらいだ。ただ、これは今言うべきことだろうかとか、こんなことを言ったらたちまち非難されるんじゃないだろうかとか、躊躇するテーマも多く、このテーマはまた後で、こっちはおいおい時期をみてと、自分の中で精査と分別を繰り返している。
そして最後に残ったどうしても書いておきたいテーマ、それは建築についてだった。

建築について自分は全くの素人で、専門的な知識は何もない。そんなただの一般人の自分が阪神淡路大震災以来、ずっと胸に抱き続けてきた疑問がある。それは、建築が人の命を奪っていいのかという疑問、いや、むしろ怒りである。

あの震災の時、一瞬にして何千人もの命を奪ったのは建築物だった。古い木造やモルタル造りの建物はもとより、駐車場スペースにするため一階に壁のないビルなども、その多くが倒壊または傾いて、いったいどの建物がまっすぐ立っているのか分からないほどだった。電柱も何もかもが傾いて、垂直の指標となるものがまったく見当たらない。
大きなマンションでさえも、揺れの方向に水平に建っていた棟は無事だったが、そうでない棟は地震の衝撃をまともに受け、二つの棟の継ぎ目の部分で建物ごと引きちぎられ大きく傾いていた。神戸市役所の二号館は、マグニチュード7,3の衝撃で6階部分が完全につぶれてなくなった。
設計ミスだとか断層の調査不足だとか、そんなことを言っているのではない。地震のエネルギーは巨大で、いつも私たちの想定を上回ってくるということなのだ。
それを思うと無力感に苛まれるしかないがしかし、だからこそ人間を内在させることが目的の建築、人の命を自然の厳しさから守ることが本来の目的である建築が、人の命を奪うようなことがあってはならないと思うし、そのことをまず何よりも念頭に置いて建物は設計されなければならないと思っている。
つまり、建築は街のオブジェではないし、ましてや建築家の虚栄を満たす道具でも、富や名声を与えてくれる美術品でもない。こんなことを言うのは、時に(この建物は恐ろしい)と感じる建築物に出会うことがあるからだ。建築家の思想を反映しているのかもしれないが、ひとたび大きな地震が来て、内装にも外装にも山と取り付けられた装飾が落下すれば、いったい何人の命を奪うのだろうと考えずにはいられない建築に出会うからだ。
時に建築が、一人の人間の威光を誇示するモニュメントに見えてしまう。いったいこの建物は何のために建てられたのだろうかと考え込んでしまう。
これは、デザインとは何かという問題にも通じるのかもしれない。デザインもまた、クリエイターの単なる遊び道具であってはならないし、ましてやマウントを取るための武器でもない。あらゆる意味で人を生かすものでなくてはならないと思っている。そして言葉もまたしかり。

「建築が凶器になってはならない」と、ある建築家が語った。その言葉を信じたい。

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