中2男子がドバイでステーキを食べまくる、切実な理由。
私には二週に一度のルーティン・ワークがある。それは大量の野菜と鶏ミンチでキーマカレーを作る事である。
二時間野菜刻みっぱなしということもあって、結果、直系28センチの自宅最大の鍋が溢れるまであと5ミリ、うっかり雑にかき混ぜればコンロの周りが大惨事といった量が出来上がる。これを冷まして冷蔵庫にストックしておけば、夫婦二人で十日はもつという算段なので、毎日晩ご飯のことを考えなくていいのは大変楽である。
その代わり毎晩カレー。飽きるといえば飽きる。そこでトッピングで変化をつけるよう心がけている。
カレーのトッピングといえば、まずはチーズ。それからパセリなどのハーブ類にフライドオニオンやフライドガーリック。さらに欠かせないのがカシューナッツだ。
そのカリッとした歯応えは、食感がやや単調なキーマカレーにいいアクセントを加えてくれるし、甘味のある香ばしさは、レストランで頂く一皿的な高級感さえ醸し出してくれる気がして、お家カレーのランクアップには必須アイテムだ。
という訳で、私はしょっちゅうカシューナッツを購入しているのだが、これが結構高い。おつまみ用の小さな袋でも500円前後はする。(こんなのあっという間だよ)と呟きながら買い物カゴに入れはするけれど、ケチりながら使うしかないな…と半ば諦めつつ、実際食べる時には自分の皿に主人の皿より一、二粒多めに入れている自分がなかなかにいじましい。
ところが先日、カシューナッツを買うならここに限る!というお店を見つけてしまった。以前の投稿に登場するジェラート屋さんと同じく神戸市灘区の庶民の台所・水道筋商店街、その西側の入り口にある『アリマート』だ。店先に置かれた看板にふと目が止まり、あれ?こんなところにこんなお店が、と入ってみたら大当たりだった。
『アリマート』は、スパイスやドライフルーツ、各種ナッツ類やオリエンタル食品に加え、日本のスーパーでは滅多にお目にかからない羊肉なども売っていて、イスラム教徒のためのハラールにも対応している。
レジの男性から聞いたところによれば、ムスリムの方と結婚した彼の娘さんが夫婦で始められたそうだ。開店してまだ日が浅い、どおりで知らなかった訳だ。
ナッツ類が豊富に揃っているということは、当然カシューナッツもある。しかも見たこともない大袋で1000円ほど、「工場直売ご家庭用われ煎」並のお得感である。
これで僅かなカシューナッツで己の卑しさを思い知らされる日々とはおさらばだ、と私は密かに頬をゆるめ、早速一袋つかんでドサッとカゴに入れた。
真新しい店内を見回してみる。間口は一間、広さは二坪あるかどうかといったところだろうか。真ん中には肉類が詰まった大型の冷凍庫が据えられ、両側の壁に作り付けられた棚には床から天井近くまで様々な食品がきちんと並べられている。その中にはカレーなどのレトルト食品もあり、それぞれのパッケージから漂う本場感が半端ない。
試しに一つ買ってみたレトルトのビリヤニが、印度レストランで食べるそれと遜色ない美味しさだったので、ウチの常備菜にすることを即決した。
『アリマート』を出て、ズッシリと重くなったショッピングバッグを肩に商店街を歩きながら、最近ハラール対応のお店が増えてきたな、とふと思った。それだけムスリムの方が増えてきたということなのだろうけれど、ちょっと待てよ、今までずっとハラールの需要はあったのに、ただ単に気づいてなかっただけなんじゃないの?とも思った。
神戸の街には昔からイスラム教徒の人々が多く住んでいるし、北野には立派なモスクだってある。なのにハラールショップといえば、つい最近までほんの数軒しかなかったような気が…。
もしかしたら、彼らは長い間相当な食の不便を強いられてきたのかもしれない。そこに考えが至ったのは、幼稚園児の頃から私が日本語を教えているA君の、激熱なステーキトークを思い出したからだった。
A君は、お祖父さんの代から神戸に住んでいるパキスタン系ムスリム一家の一人息子で、現在インターナショナルスクールの中学2年生。コロナ前は対面でコロナが広まってからはオンラインで、週に一度一緒に日本語のレッスンをするようになって早7〜8年になる。
月曜日、A君が学校から帰ってくると即レッスンが始まる。時間はいつも午後四時半をまわっていて、とにかくお腹が空いている。なので、レッスンを始める前に、まずはコンビニのおにぎりを一つ食べるのが彼のルーティンになっていた。そして具は決まって梅干しだ。
「A君、今日も梅干しだね。梅のおにぎり好き?」
「うん、梅干しおにぎり好き」
最近は梅おにぎりはカッパ巻きに変わり、カッパ巻きを食べるA君とパソコンの画面越しにしばらく雑談してからレッスンに入るという流れになっていた。
A君はあっさりしたものが好きなんだ。何となくそんな印象を持っていたけれど、時々「大阪の『焼肉パンガ』が、めっちゃ美味しい!」と教えてくれたりもするので、それなりにお肉も好きなんだな、ということは伝わってきた。
ところでA君は、夏休みになるとドバイに出かける。そこで十日ほどの休暇を過ごすのがA君一家の恒例で、先日のレッスンも数日前にドバイから帰ってきたばかりというところだった。
ドバイは日本以上に蒸し暑いらしく、滞在中はずっと巨大ホテルと巨大ショッピングモールの中で過ごし、ゲームやり放題、プールも入り放題、とにかくレジャーには事欠かないらしい。
「で、何が一番楽しかった?」
と訊くと、A君はおもむろにスマホを手に取って何やら画像を探し始めた。そして「あ、これこれ!」とパソコンのカメラ越しに見せてくれたスマホの画面に写っていたのはビーフステーキ、所謂ビフテキというやつだった。
「先生、これ見て!本物のステーキ!ドバイには本物のステーキがあるんだ!」
そう彼が力説するとおり、確かにどこからどう見てもザ・ステーキだ。熱々の鉄板に乗っかってジュージューと音を立てているのが聞こえてきそうだし、おそらくサーロインと思われる分厚く大きな肉片の上には、みじん切りのパセリを練り込んだ丸いバターの塊が、今にもとろけそうな様子で乗っている。まさにこれぞ正しいビフテキ。
「ほー」と頷いている私に、A君は「これも!これも!」と次々に写真を見せてくれた。いつになく、やけにテンションが高い。目の前に運ばれてきたステーキに歓声を上げて、あっちからもこっちからも、いろんな角度で連写している様子が目に浮かぶようだ。
でもね、そういうステーキなら神戸にもあるよ。だって、なんといっても神戸牛が……と、そう言いかけて、私はハッと言葉を飲み込んだ。
違う、食べられないんだ。いくらステーキがあっても、食べられないんだ。
黙ってしまった私のことなど気にもとめず、A君はスマホ片手にさらに熱く、さらに詳しく語り続けた。
「ハラールの焼き肉だったら大阪で食べられるけど、こんなステーキはないんだ。焼き肉じゃなくて、ハラールの本物のステーキ!
先生、ドバイに行ったら何でも食べられる。毎回店員さんに豚肉ないかどうか、食べても大丈夫かどうか聞かなくていい。食べたかったら何でも食べられる、何でも!僕、めっちゃ食べた。しゃぶしゃぶも食べた。しゃぶしゃぶは、すぐにお湯からあげるんだよね。1、2、3って。僕めっちゃ食べた!めっちゃ美味しかった!」
嬉しそうに興奮して話すA君の姿を見ているうちに、私は胸が詰まってしまった。
(そうだよね、食べたくてもいつも我慢していたんだよね)
A君が通っているのはインターナショナルスクールだから、カフェテリアにはもちろんハラール対応のランチが用意されている。でも、すぐ横では友達が好きなものを自由に食べているのだろうし、それを見ながら自分が食べられるものだけをいつもチョイスしているのだろう。
コンビニに行ったって、A君が安心して食べられるものが、いったいどれだけあるのだろう。育ち盛り伸び盛りの男子が、梅干しおにぎりが一番好きな訳がないし、カッパ巻きが大好物な訳がない。
そんな中で年に一度、ドバイで思う存分食べたいものを食べるのが、どれほど楽しみなことだろう…。
「しゃぶしゃぶ、めっちゃ美味しかった。生まれて初めて食べた。日本にはハラールのしゃぶしゃぶ屋さんないから、僕めっちゃ食べた!」
きっと、しゃぶしゃぶが「めっちゃ美味しい!」ことを友達から散々聞かされてきたのだろう。A君は繰り返しそう言って、実際食べ過ぎて後で気持ちが悪くなってしまったことも教えてくれた。
「一年に一度だもんね、その時しか食べられないんだもんね」
そう言って笑いながら、私は切なくなっていた。
昨日、A君のお母さんがドバイのお土産を渡しに来てくれた。
「A君、本物のステーキやしゃぶしゃぶをいっぱい食べたって教えてくれましたよ」
と私が言うと、
「先生、そう!私も生まれて初めてしゃぶしゃぶ食べました。とっても美味しかった」
と答えてくれた。母国の習慣からなのか、日本人ほど無闇に笑顔を見せないお母さんの表情が、嬉しそうにほころんでいた。来日十五年目にして、ついに噂のしゃぶしゃぶを楽しめた喜びが、ひしひしと伝わってきた。
食べたいものが自由に食べられる。
おそらく、これほど人の心を和ませ喜ばせることはないだろうし、周りの人達は何の問題もなく享受しているのに自分達には叶わないとしたら、ますますその自由を乞い願う気持ちが募るのは当然だろう。A君の熱いステーキトークが、そのことに気づかせてくれた。
いや、なかなか食べられないないからこそ、いざ食べられた時の感動がより大きくなるのでは?などの方向に論点を変えることもできるけれど、やっぱり伸び盛り食べ盛りの中2男子には食べたいものを思う存分食べさせてあげたい。
様々な困難があることは十分承知しているけれど、A君がいつもカッパ巻きを選ばなくてはならない現状が少しでも変わることを心から望んでいるし、私達にとってもそれは良い変化であるに違いないと確信している。
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