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電車の中に本が戻ってきた?

先日、自宅のある神戸から所用で大阪に出かけた。
梅田行きの阪急電車は主に学生さんでいっぱいだったけれど、十三駅でどっと降りると車内は一気に明るくなった。

陽射しに誘われてふと顔をあげる。
すると、吊革につかまったまま分厚い本を読みふけっている一人の男性の姿が目に入った。
何読んでるんだろう。
気になったが表紙は書店のブックカバーで覆われている。
余計に興味が湧いてくる。

とここで、こういう人を久し振りに見たな、とも思った。
ためしに車内を見まわしてみたところ、本を読んでいる人は、1,2,3……
全部で5人。
結構いる。
電車の中ではスマホを見るのが当たり前となって久しいことを考えれば、意外に多いと思った。

用事を終えて夜八時、帰りの電車の中でも探してみた。
仕事帰りの人達で車内はギューギュー、とりあえず見える範囲ではどうかと見回すと、まず目の前に座っている女性がそうだった。
膝に乗せたカバンの上にハードカバーの本を立て、それを両手で抱え込むようにして読みふけっている。
行きの電車で見かけた人同様、タイトルは書店のカバーで見えないけれど、さぞ面白いに違いない。
自然とそう思えるほど彼女は没入していた。
脇に挟んだプラスチックの筒の中には、設計図でも入っているのだろうか。
こんを詰めた一日を終え、自分だけの時間を満喫していることが一目で分かった。

隣の男子学生も読んでいた。
というより解いていた。
小さな数独の冊子を方手に、時々ペンで数字を書き込んでいる。
昔はこういう男性よくいたな、とちらと思ったけれど耳にはイヤホン。
Bluetoothで音楽を聴きながらは、やはり今どきの光景だ。

西宮北口駅を過ぎると、ぐっと視界が広がった。
斜め前には、膝の上に開いた問題集と手に持った参考書をかわるがわる見比べている高校生。
ドアの前には、付箋だらけの鉄緑会の単語帳を見ながら小声で発音を繰り返している受験生。
やっと座れた席の二つ隣には、年季の入った革製のブックカバーを付けた文庫本にじっと視線を落としている男性。
ここにも本を開いている人の姿があちこちにあり、それぞれからどんな一日を過ごしたかが立ちのぼってくるようだった。

ところで不思議なことだけれど、電車の中でスマホに見入っている人を見かけても、何を見てるんだろうと興味を持ったことがない。
むしろそんなことを考えるのは失礼だと、いつも無関心を決め込んでいる。
けれど、何故か本を読んでいる人の姿には、自ずと興味や関心を呼び起こされる。
そう言えば、以前はよく他の人が読んでいる本のタイトルに惹かれ、自分も書店で探してみたりしたものだった。
見つけた本が思った以上に当たりだったりすると、随分得をしたような気持ちになった。

帰宅して、明日から自分も本を持ち歩こうと思った。
さて、どれにするか。
軽くて、カバンの中で邪魔にならなくて、できれば気持ちが明るくなるものがいい。
早速、机の上に積まれた読む順位高めの本の山の中から一つずつ手に取って物色した結果、第一候補は『幸せに長生きするための今週のメニュー』という一冊になった。
料理本ではない。
長年日本に暮らすアメリカ人ミュージシャンが詩を書き、京都のお寺の住職でもあるイラストレーターが絵を担当した詩画集だ。

内容もそうだけれど、この本は見た目にも特徴がある。
ノートのように製本されていて背表紙がないのだ。
だから、とにかく軽い。
そして頁を開けば、素朴なタッチで描かれた絵が見開きいっぱいに広がり、その絵を背景にゆったりと、なおかつリズミカルにレイアウトされた詩のフレーズの数々は、眺めているだけで気持ちを長閑にしてくれる。
まるで絵と言葉で綴られた音楽のような一冊だ。

そして何より持った時の感触がいい。
紙質に適度な厚みと柔らかさがあって、家事で荒れた手にもしっくりと馴染んで優しく、丸く整えられた本の角は、カバンから取り出す時にも手のひらを刺したりしない。
中でも一番気に入っているのは、本の背をくるむ製本テープが布でできているところだ。
読んでいる間ずっと手のひらにあたるこの部分が布製であることが、こんなにも心地いいものだとは知らなかった。
持ち歩くのはこの一冊に決まった。

電車の中に本が戻ってきている。
もしこれが本当だとしたら、私達の手がもう一度本を求めているのかもしれないと思う。
いったい一日に何回、指先で画面をスライドさせているのだろう。
気付けば、右手の人差し指ばかりが疲れていることもある。
もう何年、手のひらをデバイスが占領していることだろう。
もう一度私の上に本を置いて、ゆっくりとページをめくらせてください。
手がそう言っているのかもしれない。

スマホは私達の地平を限りなく広げてくれた。
疑問にも不安にも、瞬時に答えてくれる頼れるやつであることに変わりはない。

でも、手の中に開かれた別世界を降車駅のアナウンスと共にパタンと閉じる。
頁の間から吹いてきた小さな風を頬にうけ、さて、と立ち上がって現実に戻る。

あの感覚が妙に懐かしい。


『幸せに長生きするためのメニュー』 
 ロビン・ロイド 詩、中川学 絵
   ちいさいミシマ社




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