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エッセイにこだわって書く

国分寺駅のホームで乗り換え待ち。懐かしい気持ちになった。

それは、国分寺という響きが子どもの頃の記憶を思い起こすきっかとなったからだ。


◇◇◇


子どもの頃、私には自分の部屋がなかった。

私は、3人きょうだいの真ん中っこ。

私が小学校に上がるタイミングで姉と共有できる子ども部屋を与えられ、弟が小学校に上がるタイミングで引っ越しをして子ども部屋が2つになる。

そこから、私の切ない日々が始まった。

弟と一緒、または、姉と一緒という形で、部屋の引っ越しを繰り返す。「私は邪魔者なのかも?」という感覚が染みついていき、私の居場所はこの家にはないのだと腹をくくった。


◇◇◇


姉にはラジオを聴きながら寝る習慣があった。

正直、とても迷惑だったが、姉の部屋に居候の身だった私は嫌だという権利がなかったのだ。

仕方なく聴くともなしに流れてくるラジオ番組に耳を傾けていた。なんとも面白い話が流れているではないか。それは、ドラマのような、ドラマではないような、変わった内容だった。

まるで私の気持ちを代弁してくれるように感じ、自分の心を見透かされているような気がして毎晩ドキドキしながら耳を傾けた。


◇◇◇


それから随分と時間が経ち、あのラジオドラマの正体を知る。

「スーパーエッセイ」というジャンルを確立させた椎名誠さんの『さらば国分寺書店のオババ』という処女作だったのだ。

何も知らないって怖いなと思いながら、その偶然の巡りあわせに驚いた。

と同時に、

ところでエッセイって何?

と首を傾げたことを覚えている。


◇◇◇


エッセイとは何か?

『さらば国分寺書店のオババ』に子どもの私が感じたものを読者に感じてもらうということ。それが私の意識して目指しているところだ。

エッセイと似たものとしてコラムというものがあるという認識の方もいるようだが、私の中ではエッセイとコラムは全く違う。似て非なるものだ。

コラムは執筆者の意見が明確にあり、それを「伝える」ことが目的で、読者には考えを「受け取ってもらう」ことを想定している。コラムの中で疑問を投げかけ、それを受け取った読者は、読後から始まる時間の中で、読者なりに考えをまとめていくこともあるだろう。

コラムは、時事問題や季節イベント的なものと連動して発表される。適時適切なタイミングで一定の枠(=コラム)が提供され、その場所ありきで書かれていることも大きな違いだろう。

一方でエッセイは執筆者の意見はあるが、意見を伝えることが目的ではない。執筆者が意見を提示し、読者自身が既に経験したこと、即ち、過去の中に「自分なりの答え」を見つけてもらうことを目的としている。

答えの存在に気づくきっかけづくりとでもいうだろうか。

エッセイは普遍的なものをテーマとして扱い、時事問題や季節イベントとは連動しないことが多い。

読者の頭の中にある「何か」を刺激すること。その刺激によって読者が救われたり助かったりのきっかけになること。

エッセイにこだわって書く。

身の置き場のない子ども時代を過ごした「私の気持ち」をただ一人理解してれた国分寺書店のオババ。オババのおかげで私は少し救われていたのだ。

国分寺駅のホームで過ごした数分、オババと同じ空気を吸っているような気持ちになれた。あのときに感じたものをこれからも大切にしていきたい。



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