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腰を低くしながらも決して舐められてはいけない

父の他界してから13ヶ月が過ぎようとしている。

一般的に、実父や配偶者といった近しい人の死に際して喪に服す期間は、13ヶ月。

この期間を、あまり意識してきたつもりはなかった。だが、ここのところ何か吹っ切れる感覚を立て続けに実感している。

「やはりそういうことだったのだ」とでもいいたくなるような出来事に遭遇してきているからだ。



父は、私に対して、諭すような言葉をチョクチョクとかけてくれる人だった。

三人きょうだいの中で、父と過ごす時間が比較的長かったからかもしれない。

父と過ごす中で、ふっと思いついたようにボソッと呟かれた言葉たち。今、ふと何かの拍子に思い出す言葉。

ここ数日は、「腰を低くしながらも決して舐められてはいけない」という言葉が思い出された。



世の中には、「あなたは優しい人だから」「あなたは素晴らし人だから」「人間ができている人だから」という前置きをすれば、どんなお願いごとでも聞いてもらえると信じている人がいる。

周りの力を借りることに躊躇いがないとでもいうのか。他人の力を自分のものとして使うことで「優越感を得たい」とでもいうのか。

そういう生き方をしてきているのだから、それを非難することはできない。

だが、無料奉仕を無尽蔵に求められる立場からしてみると、あまりにも不毛な関わりだ。自分の命を搾取されているかのような苦しみである。

とどのつまり、「舐められている」ということ。

その様子を見ていたからこそ、父は、「腰を低くしながらも決して舐められてはいけない」という言葉をかけてくれたのだろう。



実生活で、そう感じることが断続的に続いていた。

言葉は悪いが、「私はあなたの奴隷ではないです」と突っぱねたくなるような行いを強いられることが続いていたのだ。

たいてい、そのような要求をする人は、苦労人や貧乏人を装う。「ストレスを受けているのです」「お金がないのです」という言葉を理由として、こちらに不当な要求をする。

その要求をする正当な理由は何もない。

「穏便に済ませたい」、「関係を円満に運びたい」という人の心理を巧みに利用しているに過ぎないのだ。



縁あって関わりのあった人たちを全否定で追いやることは難しいとしても、ある程度のところで、キッチリと線を引くことを覚えなければならない。

情けをもって対応し、腰を低くして関わりながらも、舐められることを避けること。

そんな高度な生き方ができるのだろうか。舐められない生き方を実現することに不安を覚えないといったら嘘になるが。

それもまた人生修行。

父が遺した言葉を支えに、乗り切っていこう。