父と私とジャイアンツ
「地震かみなり火事オヤジ」。この言葉から受ける印象は人それそれだろう。
オヤジの怖さに震えおののく子ども時代を過ごした私は、地震やかみなりや火事といった恐ろしさは相当なものだなと、心引き締まる思いがしたことを覚えている。
そう、私の父は昭和の頑固オヤジ。
すぐに怒るし、手は上げるし、まぁ、いまの時代であれば「虐待ですよ」と通報されかねないほどの恐ろしい頑固オヤジであった。
そんな父の好きなものの一つがジャイアンツ。
野球の試合運びが芳しくないと、怒り狂って子どもの私や母に火の粉が降りそそぐので、恐怖を逃れたい一心でジャイアンツを応援したものだ。
◇
そんな父との間にも温かい想い出がある。
野球のキャンプ地で生まれ育った私は、キャンプの紅白戦を見学に行こうという父に誘われて、何度か野球場に足を運んだことがある。小学校高学年頃だっただろうか。
父は、決して面倒見のよいほうではなかったが、父の趣味に付き合う子どもが3人きょうだいのうち私しかいなかったため嬉しかったのか、野球について、とてもやさしく教えてくれた記憶がある。
「お父さんもやさしいとこあるんだな。」
子どもながらにそんなことを思ったものだった。
それ以来、父とは野球の話をすることが増えた。
ただし、セリーグはジャイアンツ以外を応援することはご法度。空気を読んで、私は、パリーグの球団ばかりを応援することに終始した。
しばらくの間、静かに幸せな時が流れていた。
◇
それからしばらくして、父と決定的な親子喧嘩をしてしまう。
私が30歳のとき、「勘当される」という形で家を出ることになったのだ。
父の逆鱗に触れ、殴られ、泣きながらも確たる思いで家を出た。
絶対に家に戻るもんかという気概と、父への溢れ出る愛情を感じながら、身体に残った傷跡すら愛おしく感じてしまう自分がいた。
無条件の愛を与えるのは親ではない。無条件の愛がこの世に存在しうるのは、子どもから親への愛のみだ。
◇
音信不通の時間が流れ、再会した父は、「野球はもう見んことにした」と吐き捨てるように言った。
野球に熱中するあまり我を忘れて暴言を吐く自分に嫌気がさしたのかもしれない。他にも理由はありそうだったが、それほど野球に熱を上げなくなったのは確かなようだった。
私は、その様子を不可思議に感じながらも、私自身も野球観戦から徐々に遠ざかってしまった。
どんな形であれ、野球を好きでいることは父との絆を感じられるイベントであったからなのだろう。
◇
父との関係は二転三転し、良好な時期と、疎遠な時期とを繰り返し、今年の春、ふと思い立ち、私が父に告げたのは、次のような言葉だった。
「お父さん、今年は一緒にジャイアンツを応援しようかね。」
父はただ笑顔で私の言葉にこたえてくれた。
父が怖いから応援していた子どもの頃とは全く違う気持ちで、一緒に応援する。父の笑顔が見たいから。父の嬉しい表情を見たいから。ただそれだけのために、一緒に応援する。
父が怖くてジャイアンツを応援していた私は「子ども」だった。
父と距離をもちつつも野球のファンになった私は「自立期」にいたのだろう。
そして、今、父の喜ぶ顔が見たくてジャイアンツを応援している私は「大人」になったのだ。
今シーズン、ジャイアンツは優勝するだろうか?
父の代わりに、その行く末をしかと見守っていきたい。
2019年6月20日、父、永眠の日によせて。